犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

下村湖人著 『次郎物語・下巻』

2010-04-29 00:05:16 | 読書感想文
p.142~
 現在の日本の指導層の大多数は、正面からは全く反対のできないようなことを理由にして、自分たちの立場を正当化したがるきらいがあるが、そうしたずるさは、ひとり指導層だけに限られたことではないようだ。たいていの日本人は、何かというと、表面堂々とした理由で自分の行動を弁護したり、飾ったりする。しかも、それで他人をごまかすだけでなく、自分自身の良心をごまかしている。

p.153~
 君らのそうした非良心的態度は、君ら自身をますます非良心的にするばかりではない。それがある限度をこすと、ついには、愛情と忍耐とをもって、君らの良心を力づけようと努力している人の心までをきずつけ、その愛情を忍耐とを、憎しみと怒りに代えてしまうものだ。私は、むろん、怒りに対しては怒りをもって立ち向かえ、と君らにすすめているのではない。ただ私は、愛情に対しては、つけあがり、怒りに対しては、ただちに膝を屈するような君らの奴隷根性が、なさけなくて、じっとしてはいられない気持ちがするのだ。

p.224~
 かれは、ただ、自分の本心をだれにも見すかされないために、みんなと調子をあわせていたにすぎなかった。そして、そうした虚偽がさらに新たな苦汁となってかれの胸の中を流れ、つぎからつぎに不快な気持ちをますばかりだったのである。虚偽をにくむ心は尊い。しかし、人間が徹底して虚偽から自由であることは、ほとんど不可能に近い。この故に、虚偽をにくめばにくむほど、人間の苦しみは深まるものである。

P.337~
 ぼくは、しかし、あなたのとった態度が不自然だったと言っているのではありませんよ。あなたにはそれよりほかに行き道がなかったとすれば、それがおそらくあなたにとっては自然だったでしょう。ぼくは、人間の心の自然さというものは、そのひとのつきつめた誠意の中にあると思うんです。


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 「考える文章」というものは、作者が読者に「考えさせる文章」ではなく、作者が自分自身で考えていることによって、文章そのものが考えているような独特の形を採るように思われます。それは、幸せになりたい、得したい、明るい人生を送りたいという欲求の束縛から自由であることが最低条件であるように感じられます。また、地位や名誉を求める心を無理に抑えているうちは、単に「暗い文章」というだけで、「深い文章」だとは捉えられないのかも知れません。
 
 古典文学がますます隅に追いやられ、「自分探し」「自分を変える」「金持ちになる」といった本のコーナーが拡大している書店に行くと、私はいつも実存不安に苛まれます。複雑化・殺伐化した社会の中で、人が生きる指針に迷っているのであれば、じっくりと「考える文章」に向かう余裕などないことでしょう。それがために、人が「自分探し」や「自分を変える」本にお説教してもらい、安心を買っているならば、商品としての本の売上げのために犠牲者となっている側面は免れないように思います。