犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大谷哲夫著 『日本人のこころの言葉 道元』

2010-03-25 00:02:28 | 読書感想文
p.30~

 「たき木、灰となる、さらにかえりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり。前後ありといえども、前後際断せり」。(『正法眼蔵』「現成公案」巻)

 道元は現実のありよう(現成)を、薪と灰の関係で説明しているのです。私たちは、常識的には、樹木が薪になり、それが燃えつきると灰になると思います。が、それは違うと道元は言います。目の前に灰があれば、それは灰でしかない、目の前に薪があればそれは薪でしかない。灰は灰として、薪は薪として、そのあるがままのすがたをみるのだ、と言うのです。

 道元は、仏法でいう不生・不滅も、生死も同様であることを、さらに次のように説き進めています。「薪が燃えて灰になったのちに、もう一度薪にもどることはありません。同様に、人が死んだ後に再び生き返ることもありません。だからといって、生が死になると言わないのが仏法の定まったならわしです。また、死が生にならないというのも仏法の定まったならわしなのです。すなわち、生は生、死は死で、断絶しながら連続しています」。


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 ある人の考えが広く後世まで伝えられるのは、その人を離れた「考え」の普遍性ゆえであり、人物のほうに傾倒しすぎるのは本末転倒だと思います。特に、ある人の経歴をマニアックに追いかけることは、個人崇拝による贔屓の引き倒しになる危険が大きいと思われます。しかしながら、やはりどうにも「考え」と切り離せないその人の人格があり、その個別性ゆえに普遍性が生じざるを得ないとも感じます。

 道元は8歳の時に母親を亡くし、世の無常から仏門への帰投という感慨を持ち、9歳にして『倶舎論』を読み、14歳の時に出家して天台僧となりました。しかし、加持祈祷が中心で形骸化し、名利を好み営利・闘争に明け暮れる当時の比叡山の実態に疑問を抱き、わずか1年で次の計画に向けて動き出します。時代背景は、承久の乱に至る公卿勢力の興亡の真っ只中で、朝廷軍の処刑の模様は道元に大きな影響を与えたようです。
 日々の雑事に振り回されている私にとって、800年前の死者である道元の「考え」だけを捉えることは難しいです。