犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

フジテレビドラマ 『 地下鉄サリン事件から15年』 (2) ドラマを見て考えたこと

2010-03-22 00:05:41 | その他
 ドラマの感想については、私には上手く語る言葉が見つかりません。ただただ想像を絶する現実に圧倒され、涙が止まらず、やり切れない思いがしました。また、15年間は2時間に収まるわけがなく、それでも2時間に収まっていたことに驚きましたが、ここもやはり上手く言葉にできません。
 これに対して、法律家としてのもう1人の自分は非常に能弁です。「法律のプロは冷静な判断ができなければならない。安易に感情移入して泣くようではプロとして恥ずかしい」。私が悩まされている自分自身の余計な声は、法律実務の現場の正論であり、「心情刑法」を揶揄する刑法学者の平均的思考であり、あるいは裁判員制度反対の論拠であるように思います。

 原田美枝子さんは、高橋シズヱさんご本人に見えました。人間の表情は、文字では伝えられない言葉を伝えるものである以上、これは当然のことかも知れないと思います。
 直接の加害者である林郁夫被告に対しては死刑を望むか否かで逡巡し、松本智津夫被告に対しては一貫して死刑以外はあり得ないと語る原田さん(高橋さん)の一瞬の表情は、死刑という刑罰の本質に触れているように見えました。
 もちろん、刑法の共謀共同正犯と実行正犯の区別から入る構成要件的思考や、永山基準から入る量刑相場的思考は、原田さん(高橋さん)がいかなる表情を見せたとしても、「被害感情をどのように量刑に反映するか」という問題に変換して終わりだと思います。さらには、死刑廃止条約から入るイデオロギーは、人間の複雑で語り尽くせない心情に対して大鉈を振るって終わりでしょう。

 このような犯罪と刑罰のドラマについては、法律家からの評価は概して低いのが通常のことだと思います(私の周囲ではそうでした)。厳罰化反対論からは、「マスコミは感情的になって被害者の味方ばかりし、お涙頂戴のドラマを作っている」との不満が起きていたことでしょう。また、死刑廃止論の方々にとっては、不愉快で見るに耐えず、最初から見ていなかったことと思います。
 他方で、この事件のフラッシュバックで苦しんでいる方々、あるいは他の事件の記憶によって被害者の心痛が思い起こされて息苦しくなる方々にとっても、ドラマは見るに耐えなかかったことと思います。厳罰化反対論の方々も、事件の後遺症で苦しんでいる方々も、どちらも文字にしてしまえば「見るに耐えない」ですが、この正反対の方向性を持つ心情は、捉えている地点の深さと繊細さにおいて恐ろしい差があると感じられます。
 厳罰化反対論からは、「マスコミは人々の厳罰感情を煽っている」との批判がよく聞かれます。ところが、被害者のほうは「マスコミは表面的なことしか伝えてくれない」という苦悩に直面しているのであれば、問題点が見事に食い違っており、平行線にすらなっていません。

 私がいつも拝見している高橋シズヱさんのブログに、あるコメントが寄せられており、非常に納得しました。今の日本には、地下鉄サリン事件に関与した人々の言葉と似たものがあふれている。一見すれば正論であるが、相手を欺き、自分が優越感を得て、勝ちたいがための会話である。オウム真理教の狂信と同種のものが、サリン事件を知らない子ども達の携帯での悪口にまで現れている。
 全くその通りだと思います。人間の本能の中に渦巻くドロドロとした感情は、たった15年で変わるはずもなく、その意味では風化することはないでしょう。被害者の苦しみは日本人の苦しみそのものであるという現実は、殊更に事件を思い出して悼むという遠回りではあり得ないとも感じられます。私の力は微々たるものですが、日々の仕事においてはテクニックに走る理論武装を拒み、相手の心に届くような言葉を語ることができればと思います。

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2 コメント

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Unknown (s.takahashi)
2010-04-19 01:26:23
3月まで徹夜続きもあった日々の重荷がなくなると、ある種の思考停止状態になり、最近やっと人並みの生活になって、遅ればせながら記事を読ませていただきました。
「事件から15年のつどい」で、被害者救済に関わった方々など11人のインタビュー映像をまとめたものを上映しましたが、時間の都合でその中に入れなかった話があります。
國松さんや他の方もおっしゃっていたことですが、「日本は昔から繰り返し地震や台風の被害に遭っている(家族が死んでいる)。忘れなければ生きていけない、そういう国民性なんです」と。
しかし、現代は、その国民性が残されたまま、忘れて生きていく(犯罪被害者等基本法で言う「平穏な生活に戻る」)ための環境が無くなってしまったのではないでしょうか。
核家族化、高層マンション生活、生活範囲の拡大と地域社会でのつながりの希薄化、感情や表情のないPC相手の生活など、もっといろいろあることでしょう。
人は過去の経験から、自分の身に起こった非常事態への対処法を導き出すものですが、私の周囲で知る限り、コミュニティーでの支え合いもなければ、年寄りが子どもや孫に体験を言い伝えることもない、そんな日本になっているような気がします。
「風化」とは、そもそも当事者には無縁の言葉ですが、当事者以外の人にとって、風化させないことが大事なんだと言うことではないでしょうか。
つまり、犯罪や加害者や被害者について、それが間接的であれ、過去の情報として自身に組み込んだ人が、同様の事態、あるいは同種の事態が起きた時に、組み込んでいない人より早く対応できるのではないでしょうか。
それが被害者の場合には、迅速な被害回復が図られるのではないか、ということです。
私たちが被害に遭ったことを忘れないで、と風化防止を叫んでいるのではなく、私たちの体験を、将来の何らかに役立つ過去の情報として提供できるのが当事者の務めではないかと、私は思います。
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s.takahashi様 (某Y.ike)
2010-04-30 00:02:03
身に余るコメントを頂いておきながら、お返事が大変遅くなって申し訳ございません。
私もここのところ徹夜に近い残業があり(高橋さんの徹夜の社会的意義と比べれば物の数ではありませんが)、ようやくコメントを読む時間が取れました。
人は現に「忘れなければ生きていけない」という事実と、「風化とは当事者には無縁の言葉である」という現実が、1人の人間の同じ時間に共有されていることに改めて気がつきました。理屈で考えれば、「忘れて生きていく=当事者にとっての風化」ということになるのでしょうが、当事者に風化はあり得ないという常識を前提とすれば、これは矛盾でも何でもないですね。忘れてしまっては生きていけないが、忘れなければ生きていけない、人が現に生きているのであれば、ここに論証は不要と思います。そのように生きられている高橋さんの前には、当事者ではない者(私)は逆立ちしてもかないません。
「当事者以外の人にとっては風化させないことが大事である」という命題と、「被害に遭ったことを忘れないでと風化防止を叫んでいるのではない」との命題が両立していることにもハッとさせられました。年寄りが子どもや孫に体験を言い伝えなかったら、余りに当たり前のことですが、人間は同じ過ちを繰り返すでしょうね。日本社会がそのようになっていることは、私もひしひしと感じます。
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