犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『残酷人生論』 より

2010-03-08 00:32:46 | 読書感想文
p.134~
 オウムの人々が無分別なのは一目瞭然、では、分別「くさい」顔をしたじつはそれだけの人、これは何か。分別くさい顔をしたただの良識派、そういう人と話をしていて、つまらないなあと私は感じる。それは、彼らが、「常識」をわかりきったことと思っているからである。
 我々の常識、すなわち、自分であるとか、生きて死ぬとか、陽はまた昇るとか、そういったわかりきったものごとが、いかに恐るべきわからないことであるかということがわかっていない、このためだ。彼らにとって「常識」とは、「社会的規範」以上を意味しないのだ。
 
p.152~
 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを、しばしば人は立てる。とくにきょうびのように、動機のよくわからない殺人が横行するようになると、この問いは、忘れ果てていた根源的謎のように思い出され、あちこちで議論されているようである。
 「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う我々は、その限り、人を殺してはいけないと、問う以前から知っている。知っているからこそ、その理由を問うのである。しかし、理由はないのだった。ということは、問うこと自体が、その理由なのである。我々の思考に見出されるこの端的な事実、これを私は「倫理的直観」と呼んでみたい。
 「倫理」と「道徳」の違いを直観的に理解できない、まさにそれが「倫理」と「道徳」の違いを理解できないというそのことなのである。「直観的」ということは、説明抜きで了解されるから直観的と言われるのだから、それを説明によって理解させようとすることの無理くらい、わかっている。
 たったのひとこと、倫理とは、自由である。そして道徳とは、強制である。あるいは、倫理とは自律的なものだが、道徳とは他律的なものである。

p.175~
 何について考えるのであれ、考えているのは、常に「私」である。しかし、なぜそれが「私」でなければならないか。考えているそれはなぜ、「私」と呼ばれなければならないか。
 「私」が考えているというのと、考えているのが「私」であるというのとは、似ているようで違うのだ。考えているそれは、考えているという「事態」なのであって、「主語」なのではない。実際の思考の現場は、明らかにそうなっている。


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 松本智津夫(麻原彰晃)の裁判は死刑の確定までに10年以上もかかり、あまりに長すぎるとの批判が法曹界に向けられていました。これに対して、法曹界からは10年でも短すぎるとの意見も出ており、もはや相互理解は不可能と感じたのを思い出します。

 10年でも短いという意見は、「最初から死刑を前提とした魔女裁判である」という点に集約されていたと思います。しかしながら、この論理を前提とする限り、たとえ20年、30年をかけて死刑判決を導いたとしても、やはり短いということになるでしょう。殺人を論じ、死刑を論じ、死を見落とす愚であると思います。