犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

朝日新聞・文化欄 『講演の活字化禁じた志』より

2010-03-17 23:33:50 | 言語・論理・構造
平成22年3月17日夕刊 『45年ぶり発見の小林秀雄講演テープ』より

 小林秀雄は録音されていることがわかると途中でも講演をやめることがあり、活字にするのも自分で手を入れない限りは認めなかったという。なぜそこまで活字化を禁じたのか。その理由を小林自身が語った言葉が「新潮 小林秀雄追悼記念号」(83年)のなかで、国民文化研究会理事長(当時)の小田村寅二郎氏によって紹介されている。
 
 小林は「僕は文筆で生活しています。話すことは話すが、話すことと書くこととは全く別のことなんだ。物を書くには、時に、一字のひらがなを“は”にするか“が”にするかだけで2日も3日も考え続けることだってある。話したことをそのまま活字にするなどということは、NHKにだって認めたことはないし、それはお断りします。録音テープを取るのも困る」と言い切ったという。小林の文章を書く覚悟と信念がしっかりと見える言葉だ。

 新潮社では講演CDをシリーズ化しているが、これは「死の直後、当時の編集担当者が、遺志に背くのを承知で遺族に『散逸させてはならない』と説得して同意を得たから」という。ただし、小林自身が手を入れたもの以外は、講演内容を活字化することは、今もしていない。


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 昨年の衆院選以来、取り調べ可視化法案(犯罪取り調べの全課程を録画・録音する刑事訴訟法改正案)の議論が続いていますが、両論の平行線が交わる様子は見られません。可視化の賛成論は「過酷な取り調べによる自白の強要の防止」を前提としており、反対論は「被疑者と担当官との信頼関係が保てなくなること」を前提としており、そもそも論点が噛み合っていないようです。
 
 取り調べも人間同士の会話である以上、小林秀雄が講演の録音を嫌い、その文字化を嫌った覚悟と信念を突き詰めてみれば、この場面にも同じことがあてはまるように思われます。すなわち、どんなに録音テープの再生・分析を精緻に行ったところで、人間の自白の任意性に辿り着くことは不可能だと思います。

地下鉄サリン事件をめぐる2人の裁判所書記官の話

2010-03-14 23:00:50 | 国家・政治・刑罰
 AとBは、同時期に研修所に入所し、東京地裁の実務研修に臨んだ。2人が配属された刑事部には、オウム真理教のある幹部の殺人事件が係属していた。
 2人の歓迎会の席では、数年前の麻原彰晃の初公判をめぐる先輩書記官らの思い出話に花が咲いた。公判の数ヶ月前から、東京地裁は前代未聞の大騒ぎであったこと。直前の1週間は、宿直室に泊まり込んで家に帰れなかったこと。公判の前日は、真夜中から日比谷公園に出て、徹夜で傍聴券の抽選に備えたこと。先輩書記官らの話は、地味な裏方として日本の司法を支えている誇りに満ちていた。そして、Bは、目を輝かせてその苦労話に聞き入り、自分もその場にいたかのように相槌を打った。それは、重い職責を担う自覚を新たにする場としての、歓迎会の席に相応しい新人の態度であった。
 他方、Aは、先輩書記官らが楽しそうに麻原彰晃の初公判の話題で盛り上がっている様子を見て、直感的に冷めたものを覚えていた。もちろん、日の当たらない裏方の仕事を見下している訳ではない。裁判を支えるに必要不可欠かつ崇高な役割であり、先輩達が積み上げてきたものには頭が下がる。しかし、ここまで殺人事件を肴にして盛り上がり、酒に酔って良いものだろうか。Aの表情がその場から浮いていたのを、裁判官は見逃さなかった。そして、研修が終わる頃には、AとBの勤務評定には歴然たる差がついていた。

 数年後、AとBは中堅書記官研修の席で顔を合わせた。講師は冒頭、研修生らにある質問をした。「命と裁判記録とではどちらが大事でしょうか?」
 たまたま最初に当てられたAは、反射的に「命です」と答えた。次に当てられたBは、少し悩んだ様子を見せて、「裁判記録です」と答えた。講師は、微妙な笑いを浮かべながら、「どちらも正解です」と述べた。続けて、「裁判の書類は個人のプライバシーが載っており、書類の流出は人の命に関わるので、記録のほうが命より大事だと言えるかも知れませんね」と語り、さらに数人の解答を求めた。その後に当てられた研修生は、すべて「裁判記録です」と答えた。Aは、前後左右からの冷たい視線を感じつつ、場の空気が読めない自分の愚かさを悔いた。
 その後の講師の言葉は熱を帯び、研修は活気に満ちたものになった。組織人たるものは、生活の大部分を占めるところの職場に命を賭けなければならない。特に、国家公務員は国民からの信頼が命であり、職務に命を賭すことは当然のことである。ここでもやはり「命」という言葉が繰り返し出てきた。Aは、講師の視線の中に、「あなたは組織人として失格です」との厳しい評価を看て取った。
 
 それから数年後、麻原彰晃の裁判は判決の日を迎えた。同期の出世頭であったBは、東京地裁の別の刑事部の主任書記官となり、別の幹部の殺人罪の死刑判決に立ち合い、高裁への引き継ぎを立派にこなしていた。そして、判決の前日の深夜には、かつての先輩書記官がそうしたように、日比谷公園に出て現場の陣頭指揮を取った。他方、いまだにヒラの書記官であるAは、Bの指示に従って末端の警備に当たった。
 Aが所属する部の裁判官は、どこからかAとBが同期であったことを聞きつけ、Aに対してたびたび奮起を促していた。そして、Aに出世欲がない様子を見ては、嘆きの言葉を発した。「オウムでチャンスを与えられた奴は何人もいるが、Bはそのチャンスをしっかり掴んだわけだ。それに比べてお前は、チャンスすら与えられてないじゃないか。悔しくないのか」。Aは、13人が亡くなり、5000人以上が被害を受けた事件について、チャンスという言葉を使うことすら不謹慎だと思った。しかし、例によって、何も反論せずに頭を下げていた。
 Aは、殺人事件に対する自分の感覚が、組織の中で生き抜くには邪魔であり、生きにくさの原因となっていることには十分に自覚的であった。しかしながら、迷いなく公益に従事し、組織に貢献する者の誇りと自負には、本能的な違和感を拭うことができないでいた。

 さらに数年後、麻原彰晃の控訴審は打ち切られ、死刑判決が確定した。そして、地方の支部に飛ばされていたAの耳に、Bがうつ病で休職中であるとの噂が飛び込んできたのも同時期であった。昔から、エリートの転落の噂には尾ひれが付くものであり、Aには定かなことはわからなかった。しかし、広報課に抜擢されたBが、麻原彰晃の死刑の確定をめぐる混乱の中で、様々な利害関係の中で板挟みになって倒れたことだけはわかった。
 数ヶ月後、Bから「会って話がしたい」との連絡を突然受け、東京の喫茶店でAが見たものは、嘘のようにげっそりと痩せたBの姿であった。Bの話は脈絡がなくて理解が難しかったが、Aが聞き出したところによると、Bは電話口やカウンターの責任者を任されていたが、裁判所に寄せられた意見や苦情は想像を絶する量であったらしい。そして、弁護士会からの抗議、マスコミからの詮索、一般市民からの要望に1日中追い回され、名指しで怒鳴られ、責任を取るように迫られ、過去の録音テープを再生されて矛盾を責められ、それまで積み上げてきた自信が崩壊し、ある朝突然出勤できなくなったとのことであった。
 Bは自嘲気味に、「俺も地下鉄サリン事件の犠牲者だ」と言った。Aは、この期に及んでも、Bはまだ殺人事件を肴にして自分に酔うことを止められないのだと思った。


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フィクションです。

曽野綾子著 『言い残された言葉』

2010-03-11 23:01:53 | 読書感想文
p.95~

 今ではほとんど聞かれなくなった言葉だが、昔、私の母の時代には「遠慮」というものが世間でかなり通用していた。はにかみとか遠慮とかいうものは時にはめんどうくさいと思うことも多かったが、ほとんどそういう美徳が消えてしまった今考えてみると、人間の精神を鍛える上で、かなり有効なものであったと思われる。

 遠慮とは遠くまで考えを及ぼすことだ。イマジネーションのない人には、できない精神の操作である。今の若い人は、人間とも思えないほど本を読まない人が多いから、「深謀遠慮」などというすばらしい言葉も見たことはないかも知れない。これは遠い先のことを慮ることである。「近慮」という言葉はないが、作るとすれば先のことがわからないこと。「短慮」も考えが浅いこと、つまり深く考えないことで、こんなふうに周囲の位置関係を考えてみると、遠慮はますます含みのある知的言葉に思えてくる。

 私は過去に23年間、年に1度ずつ、約2週間、障害者と海外旅行をして来た。旅が終ってお別れの時には涙をこぼすような友情を築いてきた。友情ができる基本的な原則はお互いに「尊敬」を持ったかどうかなのである。だから障害を持っているかどうかなどは全く関係ない。日本に帰ってからは、同じ旅行をした人たちは、泊まりに行ったり訪ねたり、外出のサポートをしたり親戚づきあいをしている。

 障害者のスポークスマンを自認しているような人は、健常者の言動に少しでも差別があれば「人権運動」としてそれを叩いて行こうということになっているのかもしれないが、そういう動きは、私の多くの友人である「心底強靭な精神と輝くような知性・悟性を持っている、体は不自由でも心は自由な人たち」の足を、むしろ引っ張っていると私は感じている。


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 文化庁の国語に関する世論調査の結果を受けて、ここ数年、「役不足」「破天荒」「さわり」「憮然」「煮詰まる」などの言葉の意味がちょっとした問題となりました。言葉によって選ばれるべき意味が先にあり、それゆえに人は言葉を用いて話ができるものである限り、「日本語の乱れか変化か」という問題意識はつまらないと思います。

 現代の日本で「遠慮」という単語を耳にするのは、「携帯電話のご利用はマナーモードに設定し、車内での通話はご遠慮下さい」などの場面が典型的です。「ご遠慮」ばかり使うことによって、人間が遠くまで考えを及ぼす能力が衰え、その結果として「深謀遠慮」ができなくなるならば、日本人が日本語に使われた皮肉な結果だと思います。

奈良県大淀病院・大阪地裁判決

2010-03-10 00:46:40 | 時間・生死・人生
 3月1日に大阪地裁で原告敗訴の判決が下された、奈良県大淀町立大淀病院・妊婦死亡事件に関して、ある方のブログを読みました。
 医師不足の現代日本において、多くの医師が限界を超えた過重勤務で心身を害し、病院がシステム不全に陥っている。そして、亡くなった患者に同情するマスコミや庶民が、医学の知識がないゆえの批判を行い、それが医師の疲弊に拍車をかけているといった指摘です。現場を知る方の実感であるがゆえに、医学の素人である私は、「全くその通りでしょう」と言うしかありません。

 しかしながら、数件の医療事故裁判に携わった私の狭い経験に照らして、「その通りでしょう」とは思えなかった部分もありました。
 第一に、遺族は当初は民事訴訟を起こさないと言っていたのに、後に訴訟を起こした点について、病院への責任転嫁でありクレーマーだと断じていた点です。私が担当した裁判の中には、同じような経緯を辿ったものが数件あります。それは、最初は必死に救命に当たってくれた医師に対する感謝の念だけであったのに、徐々に医師の生死に対する認識に愕然とし、感謝の念が裏切られたように感じ、複雑な感情が錯綜する中で、ついに断腸の思いで病院を敵に回さざるを得なかったというものでした。

 第二に、妻を亡くした夫が裁判を闘った苦悩や、3年近くの裁判に敗訴してしまった虚脱感を想像しようとする人間の心のあり方につき、無知で低次元な医師バッシングであると断じていた点です。
 例えば、夫が判決の直後に「残念で言葉がない」「妻に申し訳ない」と語ったコメントは、ある者にとっては、直観的に人の生死の重さに打ちのめされる言葉だと思います。1人の女性がわずか32歳で亡くなったこと、息子は母の顔を知らず母は息子の顔を知らないこと、これらの動かぬ事実は言葉を重ねて説明する種類のものではありません。
 他方で、ある者にとっては、遺族の心境への想像が医療現場を知らない素人の感情論以外ではないのであれば、もはや相互理解は不可能でしょう。

 人間が自分の人生を賭けて反論したくなる瞬間とは、自分を含めた立場が「悪」のレッテルを貼られ、それを「善」の側から一方的に攻撃されて、反省と改善を迫られた時だと思います。ここで、この土俵に乗って反論してしまえば、「善」と「悪」が固定し、それを前提として話が進むことになるからです。
 医療の現実を何も知らない大衆が感情論によって医師批判を展開し、それが医療の崩壊を招いたという主張は、「悪」とされた立場を駆逐する新たな「善」の立場です。それだけに、人の生死に対する哲学的直観まで「悪」に分類され、人間存在の複雑なあり方への繊細な考察が妨げられているようにも感じました。

池田晶子著 『残酷人生論』 より

2010-03-08 00:32:46 | 読書感想文
p.134~
 オウムの人々が無分別なのは一目瞭然、では、分別「くさい」顔をしたじつはそれだけの人、これは何か。分別くさい顔をしたただの良識派、そういう人と話をしていて、つまらないなあと私は感じる。それは、彼らが、「常識」をわかりきったことと思っているからである。
 我々の常識、すなわち、自分であるとか、生きて死ぬとか、陽はまた昇るとか、そういったわかりきったものごとが、いかに恐るべきわからないことであるかということがわかっていない、このためだ。彼らにとって「常識」とは、「社会的規範」以上を意味しないのだ。
 
p.152~
 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを、しばしば人は立てる。とくにきょうびのように、動機のよくわからない殺人が横行するようになると、この問いは、忘れ果てていた根源的謎のように思い出され、あちこちで議論されているようである。
 「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う我々は、その限り、人を殺してはいけないと、問う以前から知っている。知っているからこそ、その理由を問うのである。しかし、理由はないのだった。ということは、問うこと自体が、その理由なのである。我々の思考に見出されるこの端的な事実、これを私は「倫理的直観」と呼んでみたい。
 「倫理」と「道徳」の違いを直観的に理解できない、まさにそれが「倫理」と「道徳」の違いを理解できないというそのことなのである。「直観的」ということは、説明抜きで了解されるから直観的と言われるのだから、それを説明によって理解させようとすることの無理くらい、わかっている。
 たったのひとこと、倫理とは、自由である。そして道徳とは、強制である。あるいは、倫理とは自律的なものだが、道徳とは他律的なものである。

p.175~
 何について考えるのであれ、考えているのは、常に「私」である。しかし、なぜそれが「私」でなければならないか。考えているそれはなぜ、「私」と呼ばれなければならないか。
 「私」が考えているというのと、考えているのが「私」であるというのとは、似ているようで違うのだ。考えているそれは、考えているという「事態」なのであって、「主語」なのではない。実際の思考の現場は、明らかにそうなっている。


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 松本智津夫(麻原彰晃)の裁判は死刑の確定までに10年以上もかかり、あまりに長すぎるとの批判が法曹界に向けられていました。これに対して、法曹界からは10年でも短すぎるとの意見も出ており、もはや相互理解は不可能と感じたのを思い出します。

 10年でも短いという意見は、「最初から死刑を前提とした魔女裁判である」という点に集約されていたと思います。しかしながら、この論理を前提とする限り、たとえ20年、30年をかけて死刑判決を導いたとしても、やはり短いということになるでしょう。殺人を論じ、死刑を論じ、死を見落とす愚であると思います。

池田晶子著 『残酷人生論』 より

2010-03-07 23:26:40 | 読書感想文
p.101~
 イデオロギー信仰も、キリスト教信仰も、はたまたオウム真理教信仰も、何かひとつのことを信仰している人々を笑う余裕が、人々にはできてきたかのように、20世紀も末になって少し見受けられるけれども、ナニ、大差ない。神を拝まない人は、金を拝んでいたりするのである。拝金教信者。
 
p.106~
 私は、信仰はもっていないが、確信はもっている。それは、信じることなく考えるからである。宇宙と自分の相関について、信じてしまうことなく考え続けているからである。救済なんぞ問題ではない。なぜなら、救済という言い方で何が言われているのかを考えることのほうが、先のはずだからである。これは、驚くべき勘違いである。オウムの事件は、たぶん、トドメの悪夢なのだ。

p.108~
 オウムの一件にもかかわらず、世の「不思議大好き」ブームは衰えないらしく、書店には新手の「精神世界モノ」が平積みされている。
 自分の「前世」を知りたいという願望にも、同種の転倒が潜んでいる。現在を知るためには、現在を知れば足りる。前世を知ろうが知るまいが、この現在には何の変わりもない。それなら、なぜとくに前世なんかを知る必要があるのだろうか、いかなる「奇蹟」を人は期待しているのだろうか。

p.112~
 信じる者が救われるのは、当然である。なぜなら、救われたくて信じるからである。ところで、人が何かを信仰するとき、たとえばオウムのように明らかなウソとわかる宗教でも、信じられる人はそのことによって救われているからいい、信じられる人はいい、という言い方をする人もいる。しかし、これは本当だろうか。
 本当のことというのは、本当だと認められるから本当なのであって、本当だと認められないことは本当ではない、ウソである。それで、本当ではないウソのことというのは、認められるのではなく信じられることになる。人がそれを信じるのは、それがウソだからである。

p.118~
 たとえば、「死後の生」という言い方、あれは何か。生ではないもののことを死と呼ぶということに、我々は決めているのだから、「死後の生」という言い方は、ないのである。そういうものが「何もない」と言っているのではない。なぜなら、無は無いからである。存在のみが、在るからである。
 無くなることなく常に在るから、それは「存在」と呼ばれるのだが、生前死後にかかわらずに存在であるその存在、それと、この「私」との結託関係、これこそが究極の謎なのだ。


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 この本は、オピニオン誌「Ronza」の平成7年4月号から平成9年6月号までの連載を集めたもので、ちょうど地下鉄サリン事件の直後の時期であり、オウム真理教についての記述が多く出てきます。
 
 平成7年には「ああ言えば上祐」が流行語になりました。一流大学卒、頭脳明晰、ディベート能力抜群、プレゼンテーション能力秀逸。しかしどういうわけか、それを全部集めると滅茶苦茶になるという意味で、含蓄のあるワンフレーズであったこと思い出します。
 思考停止状態とは、絶句して沈黙している状態ではなく、自信満々で能弁に語り続ける状態を指すのだと改めて気付かされます。

北川東子著 『ハイデガー ―存在の謎について考える』

2010-03-06 23:57:19 | 読書感想文
p.14~

 哲学とは別にもうひとつ、「存在そのもの」が、非常に具体的で切実な問題となる場面があります。それは、自分自身の存在や、自分にとってかけがえのない存在が失われようとするときです。たとえば、自分が深刻な病にかかった場合や、身近に死を体験した場合などです。

 そのようなときは、ハイデガーが言うように、どう存在しているか、どの存在かなどの問題はほとんど意味を持ちません。端的に、「存在そのもの」が問題となるのです。端的に、「いるかいないか」が大事なのです。哲学では、死や戦争や人権の剥奪など、私たちが遭遇するぎりぎりの状況を「限界状況」と呼びますが、そうした限界状況にあってこそ、存在論、つまり「存在とはなにか」という問いは真の意味を持つように思われます。


p.73~

 私たちの世界のありようは、それが私たちの世界であるかぎり、「自分」という一点に向かっています。「自分」に絞り込まれた世界です。「自分」に絞り込まれたところから、世界が見えます。まず「自分の世界」があって、「周りの世界」があって、皆と一緒の「共同の世界」があってというように、世界は「自分」を出発点として拡がっています。そうした世界のありかたを、ハイデガーは、「切っ先が自分の世界に向かっていること」と表現します。

 私たちが生きている世界を体験するのは、自分のそのときどきの状況においてしかありません。「状況的性格」です。固定した「自分」はないが、同時に、「客観的な世界」というものも確立しているわけではありません。自分は「世界のうちにいる」状況的存在でしかなく、世界は、「切っ先が自分の世界に向かっている」というかたちでしか現れてきません。

 ハイデガーは、エゴというかたちで「自」をまず立てる哲学の根本的な誤りを指摘しています。「自分の世界」の自分性とは、状況的な事態のことであり、主語「私」からではなく、「この自分にとって」という間接的なかたちでしか与えられない。「私が」見るのが世界ではなくて、「自分にとって」現れるのが世界である、と言うのです。ハイデガーのこの指摘は、私たちが具体的に「自分の世界」をどう理解しているかを考えると、よく納得できます。


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 今日の読売新聞に、「ネットで医師暴走、医療被害者に暴言・中傷」という記事がありました。ネット上で発信する医師たちが、医療事故の被害者・支援者への個人攻撃や中傷などを行い、遺族が精神的な二次被害を受ける例が絶えないとの内容です。
 平成11年7月に起きた東京都杉並区の割り箸死亡事故の裁判においては、医師の無罪が平成20年に確定した後、「医療崩壊を招いた死神ファミリー」「被害者面して医師を恐喝、責任転嫁しようと騒いだ」などと両親を非難する医師の書き込みがネット上に相次いだそうです。そして、亡くなった4歳の男の子の母親は、「発言することが恐ろしくなった」と語っていたとのことです。

 ハイデガーが述べたとおり、自分は「世界のうちにいる」状況的存在であり、「自分にとって」現れるのが世界であるのならば、そのように思う医師が(肩書きではなく1人の人間として)そのように思うこと自体は、他の人間が止めることは不可能です。匿名の掲示板には本音の部分が出ることに加えて、人間が内心でそのように思うことそのものは、他人には如何ともし難いからです。
 現状を憂慮した日本医師会の生命倫理懇談会は、こうしたネット上の加害行為につき「専門職として不適切だ」と戒める報告書をまとめたそうです。しかしながら、外に出せない人間の本音は、心の奥底でますます強まることと思います。

 北川氏が述べるように、人間が遭遇するぎりぎりの限界状況にあってこそ、「存在とは何か」という問いは真の意味を持つように私にも思われます。4歳まで育てた息子を突然の事故で喪ったこと、その後の10年近い裁判によって医師の無罪が確定したこと、このような限界状況において問いが無数に発生し、特定の主義主張を先取りする問いを削ぎ落とす過程において必然的に問われてしまっている問いは、哲学的な存在論の問いに他なりません。

 そして、まさに「私が」見るのが世界なのではなく、「自分にとって」現れるのが世界なのであれば、このような限界状況は、経験した当事者でなければわからないというそのことだけは、当事者以外にも理解が可能であるように思われます。また、このことを理解している(大多数の)医師の方々は、遺族らを個人攻撃し、「自称被害者のクレーマー」「責任をなすりつけた上で病院から金をせしめたいのか」などと書き込む気にはなれないものと思います。

森鴎外著 『高瀬舟』

2010-03-04 23:44:56 | 読書感想文
 私は、大学の法学部や法律関係の職場で専門書ばかり読んでいた影響で、犯罪や刑罰に関する小説が上手く味わえなくなったと感じることがあります。その反面、新聞に載るような書評や文芸評論はマニアックすぎて、小説を上手く味わっているとは思えないような気もします。
 森鴎外の『高瀬舟』のテーマは「安楽死」か「知足」か、文学界では論争があったようですが、この問いには答えが出ないと思われます。目撃者の証言では(重い)殺人罪が認定されるような状況において、本人の供述が信用されて(軽い)承諾殺人罪が認定されるためには、全人格的な「知足」の気配・言動が無関係ではあり得ないからです。

 安楽死の法律論としては、自己決定権や人間の尊厳といった価値から「死ぬ権利」を演繹的に抽出しつつ、積極的安楽死(医師による自殺幇助)と消極的安楽死(延命処置の中断)を分けて考察するのが最低条件だと思います。その上で、昭和37年の名古屋高裁判例が提示した6要件、及び平成7年の横浜地裁判決が提示した4要件に対する研究が進められており、議論はどんどん細かく技術的になっているようです。
 しかしながら、これらの法律論の研究は、鴎外が提示した問いの切り口には迫っていないように感じられます。主人公の庄兵衛(護送役)が最後に「疑が生じてどうしても解けぬのである」「まだどこやらに腑に落ちぬものが残っている」と考えたのは、喜助(弟殺し)の「知足」の言動への疑問も含まれているからです。

 喜助が弟殺しの様子を庄兵衛に語る部分は、行間を読まなければ読めない種類の文章だと思います。「敵の顔をでも睨むような憎々しい目」「頭の中では車の輪のようなものがぐるぐる廻っているよう」といった比喩は、医師であった鴎外だからこそ書けた極限の表現とも感じます。
 ところが、現在の犯罪論・刑罰論においては、大前提として科学的な事実を確定し、それに対する自白の一致を確認する思考方法が絶対的です。すなわち、まずは刃物の指紋や創傷の深さや角度の科学的証明が第一で、次には本人の客観的な事実の記憶の描写に価値が置かれます。これに対し、本人の主観的な意見・推測・想像などは証拠価値が低いものとされます。実務の慣習上も、比喩的な表現は供述調書に一段下げて記載され、証明力の弱いことが明示されます。

 血の通った裁判の難しさを感じると同時に、江戸時代のお白洲が現代の裁判に比して著しく劣っているとは断じられないとも感じます。

眠くなる文章

2010-03-01 23:43:48 | 国家・政治・刑罰
ある犯罪被害者保護研修の資料より

 犯罪被害者が訴訟記録の閲覧又は謄写をするには、「当該被害者等の損害賠償請求権の行使のために必要と認められる場合その他正当な理由」がなければならない(犯罪被害者保護法3条1項)。この正当な理由については、「損害賠償請求権の行使のために必要があると認める場合」が例示されていることから、これと同等の理由が必要であると考えられ、単に被害者等が事件の内容を知りたいというだけでは、正当な理由があるとは認められない。

 犯罪被害者が訴訟記録の閲覧又は謄写をするには、正当な理由がある場合であって、更に「犯罪の性質、審理の状況その他の事情を考慮して相当と認められるとき」でなければならない。ここにいう「相当と認められるとき」とは、訴訟記録の閲覧又は謄写をした場合に、不当に関係人の名誉若しくは生活の平穏を害し、又は捜査若しくは公判に支障を生じさせる不当な影響がないか、又はその恐れが低い場合をいう。

 逆に、関係人の名誉又はプライバシーへの不当な侵害などが懸念される場合、閲覧又は謄写された内容が濫用される懸念がある場合、被告人が事実を争い、被告人の供述調書の信用性が争われている事案で、その閲覧又は謄写を認めると審理に支障が生じるような場合などにおいては、閲覧又は謄写が認められることは相当でないと考えられる。将来的には、相当性およびその判断過程の透明性をチェックする第三者委員会、不正監視委員会の設置も検討されよう。

 訴訟記録の閲覧又は謄写の申出に対しては、速やかに応答しなければならない(犯罪被害者保護規則3条)。当然のことながら、書類の不備の指摘、過去の事例の調査による整合性の検討や、正当な理由や相当性の有無などを判断するのに必要な時間まで制限されるものではない。応答は、訴訟記録の閲覧又は謄写をさせるかどうかを申出人に知らせることによって行う。訴訟関係人その他の者に通知をした場合には、これを記録上明らかにしておかなければならない(犯罪被害者保護規則11条1項、刑事訴訟規則298条3項)。

 訴訟記録を謄写させる場合においては、謄写した訴訟記録の使用目的を制限し、その他適当と認める条件を付することができる(犯罪被害者保護法3条1項)。これは、訴訟記録を謄写させた場合において、目的外使用がされたり、一般に公表されるなどの濫用があると、関係人の名誉若しくは生活の平穏が害されるからである。仮に条件違反があって、それにより関係人が損害を被った場合には民法709条の不法行為が、当該関係人の名誉を毀損した場合には刑法230条の名誉毀損罪がそれぞれ成立する場合がある。


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 法律専門職の間では、犯罪被害者保護に関する研修も増えてきました。しかし、官僚的な文章は眠気を誘うもので、何か大きなものを得て帰ったという記憶はありません。
 このような研修に真剣に取り組んだ結果として、「犯罪被害者は法治国家のルールに収まらずに扱いが難しい」という視点を無意識に身につけてしまうのであれば、寝ていたほうがいいとも思います。