犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

奈良県大淀病院・大阪地裁判決

2010-03-10 00:46:40 | 時間・生死・人生
 3月1日に大阪地裁で原告敗訴の判決が下された、奈良県大淀町立大淀病院・妊婦死亡事件に関して、ある方のブログを読みました。
 医師不足の現代日本において、多くの医師が限界を超えた過重勤務で心身を害し、病院がシステム不全に陥っている。そして、亡くなった患者に同情するマスコミや庶民が、医学の知識がないゆえの批判を行い、それが医師の疲弊に拍車をかけているといった指摘です。現場を知る方の実感であるがゆえに、医学の素人である私は、「全くその通りでしょう」と言うしかありません。

 しかしながら、数件の医療事故裁判に携わった私の狭い経験に照らして、「その通りでしょう」とは思えなかった部分もありました。
 第一に、遺族は当初は民事訴訟を起こさないと言っていたのに、後に訴訟を起こした点について、病院への責任転嫁でありクレーマーだと断じていた点です。私が担当した裁判の中には、同じような経緯を辿ったものが数件あります。それは、最初は必死に救命に当たってくれた医師に対する感謝の念だけであったのに、徐々に医師の生死に対する認識に愕然とし、感謝の念が裏切られたように感じ、複雑な感情が錯綜する中で、ついに断腸の思いで病院を敵に回さざるを得なかったというものでした。

 第二に、妻を亡くした夫が裁判を闘った苦悩や、3年近くの裁判に敗訴してしまった虚脱感を想像しようとする人間の心のあり方につき、無知で低次元な医師バッシングであると断じていた点です。
 例えば、夫が判決の直後に「残念で言葉がない」「妻に申し訳ない」と語ったコメントは、ある者にとっては、直観的に人の生死の重さに打ちのめされる言葉だと思います。1人の女性がわずか32歳で亡くなったこと、息子は母の顔を知らず母は息子の顔を知らないこと、これらの動かぬ事実は言葉を重ねて説明する種類のものではありません。
 他方で、ある者にとっては、遺族の心境への想像が医療現場を知らない素人の感情論以外ではないのであれば、もはや相互理解は不可能でしょう。

 人間が自分の人生を賭けて反論したくなる瞬間とは、自分を含めた立場が「悪」のレッテルを貼られ、それを「善」の側から一方的に攻撃されて、反省と改善を迫られた時だと思います。ここで、この土俵に乗って反論してしまえば、「善」と「悪」が固定し、それを前提として話が進むことになるからです。
 医療の現実を何も知らない大衆が感情論によって医師批判を展開し、それが医療の崩壊を招いたという主張は、「悪」とされた立場を駆逐する新たな「善」の立場です。それだけに、人の生死に対する哲学的直観まで「悪」に分類され、人間存在の複雑なあり方への繊細な考察が妨げられているようにも感じました。