犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

宮地尚子著 『傷を愛せるか』

2010-03-24 23:55:22 | 読書感想文
p.104~

 日本にも強く波及しつつある米国のネオリベラリズム(新自由主義)が危険なのは、弱みにつけ込むことがビジネスの秘訣として称賛されることで、弱さをそのまま尊重する文化を壊してしまうからだとわたしは思う。そして医療をビジネスモデルで捉えるのが危険なのは、病いや傷を負った人の弱みにつけ込むことほど簡単なことはないからである。

 では「悪貨は良貨を駆逐」してしまうのだろうか? 弱肉強食のルールに従って生きていくしかないのだろうか? そうではないと思う。弱さを抱えたまま生きていける世界を求めている人も多い。弱さそのものを尊いと思う人、愛しいと感じる人も多い。それもまた人間のもつ本性の1つだと思う。そうでなければ、弱き者はすでにすべて淘汰されていたはずだ。


p.161~

 「ポスト・トラウマティック・グロース(外傷後成長)」という言葉がある。心に傷を負ったあとの人間としての成長という意味である。人は傷によって弱められるだけではない。それによって学び、成長することもある。直感的には、おそらくだれもが理解し大切だと思い、そこに希望を見いだすだろう。わたしもそうだった。

 けれども研究の俎上に載ったとたん、その概念は測定や評価可能な「因子」となってしまう。「外傷後成長」の定義が決められ、「成長」の指標となる項目が選ばれ、「外傷後成長」度を測る質問票が作成される。そして「病前性格」やPTSD症状の重さ、抑うつ度や社会的活動度などとの比較がなされ、相関関係が調べられる。そういった研究プロセスを学会のシンポジウムで紹介していた発表者の1人が、「自分がなにをしているのか、わからなくなってきた」とポロッとこぼしていたが、わたしもまったく同感だった。

 同じようなことが「レジリエンス」という言葉にもいえる。「レジリエンス」とは、傷への抵抗力、回復力、復元力といった意味で、最近トラウマ研究でも注目されている。これも研究が進むにつれ、たとえばその個人差が明らかになってくれば、「トラウマを負ったあと、なかなか回復しないのは、その個人のレジリエンスが低いからだ」といった自己責任・被害者非難の論調に簡単に転化しかねない。


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 一橋大学大学院教授・医学博士の宮地氏は、あとがきで次のようにも述べています。「傷を抱えながら生きるということについて、学術論文ではこぼれおちてしまうようなものを、すくい取ってみよう。だれもが言葉にならない痛みを抱えている時代だからこそ、旅での些細な出来事や、映画やアートなどから見えてくるものがあるのではないか」。自分の拠って立つ思考の枠組みや、自らの学術論文の功績を打ち壊すことのできる学者は誠実だと思います。

 法律学の世界においても同様のことが言えるはずですが、宮地氏のように「こぼれおちてしまうようなものをすくい取る」視点を持っている学者にはあまりお目にかかったことがありません。刑事法学者の大多数は、「厳罰よりも心のケアこそが真に必要なのである」と述べて、あとは精神科医にお任せだという印象を受けます。
 社会科学のほうが科学的客観性を信じ込み、間主観的な交換可能性をもって客観性とみなし、被害者を証拠物件の1つとしか見られないのであれば、「こぼれおちてしまったもの」は増える一方だと思います。