犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

湯山光俊著 『はじめて読むニーチェ』

2010-03-29 23:54:14 | 読書感想文
p.108~

 ニーチェにとって概念とは、知的なパズルではなく、つねに自分の生理的な身体に起こることをもとにした賭けごとなのです。具体的にいえばあらかじめ慣習的に決められた〈良い/悪い〉で概念が構成されるのではなく、身体の〈快/不快〉から得られた具体的な事実をもとにして概念は試作されるのです。
 病から得るものに自らが耐え得ることができるかどうかをいつも自覚的にニーチェは検証しています。つまり「永遠回帰の体験」だけが特殊な形式なのではなく、ほとんどのニーチェの概念が、彼の身体で起きることをもとにして、堅固な定義づけもないまま、自らを材料に「実験」されるものなのです。

 永遠回帰とは苦しみの回帰でもあります。「同じきものの回帰」を原則とすれば、苦しみはまったく等しく永遠に反復されるはずなのです。だから永遠回帰についての最も誤解した考えは「何度繰り返されたとしてもこの〈今〉が充実するような生き方をしよう」という人生教訓めいたものです。自分が〈今〉にあたえる価値は、生とは無縁のものです。
 傷つき、病むことは回避できないからこそ、どんな現実も肯定し、ニーチェはこれを「実験」すると言ったのでした。努力のご褒美として〈今〉が価値あるものになるのではなく、繰り返される〈今〉に耐えることのできる〈意欲〉と〈強さ〉のほうに価値があるのだとニーチェは訴えたかったのでしょう。


p.120~

 あなたがもし、驚くべき体験をしたら、あなたはどうするでしょうか。心の内に秘めて一生それを語ろうとはしないかもしれないし、あるいは持てる限りの言葉を使って、その体験を誰かに伝えようとするかもしれません。少なくとも、誰かにこの体験を理解してもらいたいと願うとき、どんなやり方で伝えるでしょうか。
 たとえば恐怖体験。少しでも人に語ることで、その恐怖を和らげようとする意志も手伝ってか、できるかぎり自分の体験に臨場感をあたえリアルな恐怖を相手に再体験させるために語り方に工夫を凝らします。しかしこの方法の弱点は、たしかに恐怖を与えることはできても、この体験のもっともらしさが、逆に体験を空々しい作り話に変えてしまう可能性をもっているということです。同時に自分の体感した認識に言葉をひきつけるほど、その言葉は主観的なものになってしまい、聞く人が自分とは関わりがないことであると感じさせる要因ともなります。

 では、その逆に自らの認識をできるかぎり主観から引き剥がすことで、体験そのもののもっている真実味をそのまま取り出すことはできないでしょうか。フリードリッヒ・ニーチェが、自らの特殊な体験にたいしてまず最初に試みようと思ったのは、後者のほうでした。つまり彼がいう「科学的な証明」によって、自らの認識の主観性を拭い去って、体験を証明しようとしました。
 その後『ツァラトゥストラ』を書くことで、今度は永遠回帰という概念を説明するのではなく、人々がそれぞれ永遠回帰を発見できるようなきっかけを作り出そうとしました。そしてその発見の過程こそが永遠回帰を体現することになるように目論んだのです。


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 ニーチェの思想は、21世紀の神なきニヒリズムの時代において、その価値が見直されているといった言説を聞くことがあります。しかし、永遠回帰を説く哲学に対して、「時代の先を行く」「時代が追いついた」「今は○○の時代だ」という評価を与えるのは、いかにも不自然であると感じます。そもそも、ニーチェを正しく解釈しようとすると、正しい解釈など不可能になり、それを読む者が勝手に読み込みたいものを読み込むことによって、結果論としてニーチェの正しい解釈が可能になるという形にならざるを得ないと思います。

 21世紀の神なきニヒリズムの日本において、『超訳 ニーチェの言葉』が確かに広く受けているのは、弱者の奴隷精神がもたらす価値観の反転(ルサンチマン)の視角の鋭さによるものだと思います。情報化社会に基づく多元的な価値観の並存の中で、強制的に生かされる混乱を強いられている人々は、もはや価値観の反転を選び取っているというよりは、倒錯した価値観を押し付けられても気がつかないのかも知れません。こうなると、ニヒリズムから力への意志を飛ばして永遠回帰に直行し、「何度繰り返されたとしてもこの〈今〉が充実するような生き方をしよう」という人生訓が導き出されるのも当然のこと思います。