犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

言葉にしたとたんにウソになる

2010-03-27 23:55:57 | 時間・生死・人生
 「1本前の電車か1本後の電車に乗っていれば被害に遭わなかったのに、なぜその電車に乗ってしまったのか」。地下鉄サリン事件のような被害において、避けがたく湧き上がってくるのがこの問いだと思います。3月8日に発生から10年を迎えた日比谷線脱線事故や、3月26に強制起訴が決まったJR福知山線脱線事故も同じです。この問いを解こうとすると、時間を遡って考えることにならざるを得ないと思います。
 毎日、この時間の電車に乗っていたのは、この会社に通勤するためである。そして、この会社に就職したのは、学生時代にある転機があったからである。そして、なぜそのような転機があったのかと言えば…… という具合に、誕生の日に向かって時間はどんどん遡っていきます。そうなると、事件につながる因果関係を正確に捉えようとすればするほど、過去のすべての場面に登場する多数の他者とのつながりが網の目のように出現し、変えようのない過去と唯一の現在を再確認するだけで、どうしても答えが出なくなるように思います。

 唯一の現在があり、それは唯一の過去につながっている。ゆえに、唯一の過去はその過去の時点では唯一の現在であり、この唯一の現在もすぐに唯一の過去となる。時間は、いつもこのような在り方をしている。よって、歴史に「タラ・レバ」はなく、すべては起こるべくして起きたのであり、人間の自由意思の入る余地がない。このような直観を強制されることは、存在と時間の前に全身を押さえつけられ、窒息するような感じにならざるを得ないとも感じます。
 人間は恐らく、この先を考えることはできないでしょう。それは、人間が他方で、この先に待っているのは狂気であることを直観する能力を持っているからではないかと思います。但し、人間の思考の密度が濃くなり、狂気に近づけば近づくほど、自由意思の有無は判然としなくなることも確かだと思われます。学者が机上の空論において自由意思の有無を論じている間に、苦悩に直面する者は現にそれを生きてしまっているように感じられます。

 「事故に遭ったのはなぜ『他でもないその人』だったのか」と第三者が問う分には余裕がありますが、「なぜうちの娘が事故に遭わなければならなかったのか」という問いは、そのように問う者が『他でもないその人』であるという意味において、自らの存在を痛めつける過酷な問いにならざるを得ないと思います。そして、この問いの周辺には、あらゆる種類の誤解が生じており、さらに問いの所在を見えにくくしているようです。
 「なぜうちの娘が」という問いに対して、「それなら赤の他人の娘なら事故に遭ってもいいのか」と問い返すことは、その赤の他人の娘が事故に遭わずに生きている限り、唯一の現在への問いに対する反問としては的を外しています。また、「助けてあげられなかった自責の念」を語る言葉に対し、責任を感じる必要性がないことを指摘して慰めることも、助けられたという選択肢が人間の自由意思を証明するものである限り、やはり完全に的を外しています。

 裁判の場における最も多い誤解は、「死者は無念さを語ることができない」という絶望的な真実の指摘に対して、「遺族は死者の無念を晴らそうとしている」との解釈が与えられることでしょう。このような解釈をされてしまえば、問いの主題は死者から遺族に移り、生きている側の都合だけで物事が考えられることになります。
 法律実務家においては、死者に権利能力がないことは常識であるため、「死者の無念」という表現は稚拙は比喩であるとして、一段低く見られることが多いようです。そして、その先には、「遺族の厳罰感情は十分に考慮しなければならない」という同情や、「厳罰にすればそれで済むのか」「厳罰では根本的な解決にならない」という苛立ちが示されます。これらは、解決不可能なものを解決可能であると思い込み、間違って立てられた前提から間違って立てられた問いであるため、当初の繊細な問いの視点からは遠く隔たっているように思われます。

 「1本前の電車か1本後の電車に乗っていれば被害に遭わなかった」という事実は、動かしがたい事実として問いの大前提になっています。ところが、犯罪を起こした側にスポットを当ててみれば、ここには紛れもない人間の自由意思と主体性が現れています。すなわち、能動態の側においては、歴史に「タラ・レバ」はあります。
 地下鉄サリン事件においては、教祖が「この電車にする」と決め、弟子がそれを忠実に実行する間の無数の過程において、自由意思において引き返す可能性がありました。洗脳されていようが、マインドコントロールを受けていようが、犯行に至る一挙手一投足が自由意思の結果であること想定することがなお可能です。
 これは、被害者側においては「タラ・レバ」がなく、すべては起きるべくして起きたという絶望と比較してみると、実に対照的だと思います。犯行の瞬間に至るまでの弟子の葛藤・逡巡などは、被害者側の問いに比べれば遥かに甘く、いつでも逃げられる保険がついた問いに過ぎないでしょう。
 
 他方で、被害者側が全人生を賭けて求めている解答への鍵は、この加害者側の自由意思の分析によって全面的に左右されます。そして、近代法治国家においては、この鍵が明かされる場は裁判しかありません。被害者が辛くても裁判の傍聴を続け、あるいは敢えて裁判から眼を逸らそうとするのは、この社会制度によってもたらされるものです。
 しかも、近代法治国家における刑事裁判は、この鍵を明かす場として設けられているのではありません。ゆえに、被告人には自己負罪拒否特権が保障されており、自分の記憶に反したウソをつくことも認められ、全面的な黙秘権が保障されています。現に松本智津夫被告の裁判は、10年を費やした挙句に周知の経過を辿りましたが、これは憲法の精神を体現した理想的な裁判であったと言えなくもありません。
 裁判が終わった後に残されるのは、やはり「なぜその電車に乗ってしまったのか」という問いです。この問いに答えようとすれば、ウソをつくことを意図するわけではないのに、どうしても語られたことはウソにならざるを得ないと思います。また、黙秘権が保障されているわけでもないのに、口を閉ざして語ることができなくなるように思います。