犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

森鴎外著 『高瀬舟』

2010-03-04 23:44:56 | 読書感想文
 私は、大学の法学部や法律関係の職場で専門書ばかり読んでいた影響で、犯罪や刑罰に関する小説が上手く味わえなくなったと感じることがあります。その反面、新聞に載るような書評や文芸評論はマニアックすぎて、小説を上手く味わっているとは思えないような気もします。
 森鴎外の『高瀬舟』のテーマは「安楽死」か「知足」か、文学界では論争があったようですが、この問いには答えが出ないと思われます。目撃者の証言では(重い)殺人罪が認定されるような状況において、本人の供述が信用されて(軽い)承諾殺人罪が認定されるためには、全人格的な「知足」の気配・言動が無関係ではあり得ないからです。

 安楽死の法律論としては、自己決定権や人間の尊厳といった価値から「死ぬ権利」を演繹的に抽出しつつ、積極的安楽死(医師による自殺幇助)と消極的安楽死(延命処置の中断)を分けて考察するのが最低条件だと思います。その上で、昭和37年の名古屋高裁判例が提示した6要件、及び平成7年の横浜地裁判決が提示した4要件に対する研究が進められており、議論はどんどん細かく技術的になっているようです。
 しかしながら、これらの法律論の研究は、鴎外が提示した問いの切り口には迫っていないように感じられます。主人公の庄兵衛(護送役)が最後に「疑が生じてどうしても解けぬのである」「まだどこやらに腑に落ちぬものが残っている」と考えたのは、喜助(弟殺し)の「知足」の言動への疑問も含まれているからです。

 喜助が弟殺しの様子を庄兵衛に語る部分は、行間を読まなければ読めない種類の文章だと思います。「敵の顔をでも睨むような憎々しい目」「頭の中では車の輪のようなものがぐるぐる廻っているよう」といった比喩は、医師であった鴎外だからこそ書けた極限の表現とも感じます。
 ところが、現在の犯罪論・刑罰論においては、大前提として科学的な事実を確定し、それに対する自白の一致を確認する思考方法が絶対的です。すなわち、まずは刃物の指紋や創傷の深さや角度の科学的証明が第一で、次には本人の客観的な事実の記憶の描写に価値が置かれます。これに対し、本人の主観的な意見・推測・想像などは証拠価値が低いものとされます。実務の慣習上も、比喩的な表現は供述調書に一段下げて記載され、証明力の弱いことが明示されます。

 血の通った裁判の難しさを感じると同時に、江戸時代のお白洲が現代の裁判に比して著しく劣っているとは断じられないとも感じます。