犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

北川東子著 『ハイデガー ―存在の謎について考える』

2010-03-06 23:57:19 | 読書感想文
p.14~

 哲学とは別にもうひとつ、「存在そのもの」が、非常に具体的で切実な問題となる場面があります。それは、自分自身の存在や、自分にとってかけがえのない存在が失われようとするときです。たとえば、自分が深刻な病にかかった場合や、身近に死を体験した場合などです。

 そのようなときは、ハイデガーが言うように、どう存在しているか、どの存在かなどの問題はほとんど意味を持ちません。端的に、「存在そのもの」が問題となるのです。端的に、「いるかいないか」が大事なのです。哲学では、死や戦争や人権の剥奪など、私たちが遭遇するぎりぎりの状況を「限界状況」と呼びますが、そうした限界状況にあってこそ、存在論、つまり「存在とはなにか」という問いは真の意味を持つように思われます。


p.73~

 私たちの世界のありようは、それが私たちの世界であるかぎり、「自分」という一点に向かっています。「自分」に絞り込まれた世界です。「自分」に絞り込まれたところから、世界が見えます。まず「自分の世界」があって、「周りの世界」があって、皆と一緒の「共同の世界」があってというように、世界は「自分」を出発点として拡がっています。そうした世界のありかたを、ハイデガーは、「切っ先が自分の世界に向かっていること」と表現します。

 私たちが生きている世界を体験するのは、自分のそのときどきの状況においてしかありません。「状況的性格」です。固定した「自分」はないが、同時に、「客観的な世界」というものも確立しているわけではありません。自分は「世界のうちにいる」状況的存在でしかなく、世界は、「切っ先が自分の世界に向かっている」というかたちでしか現れてきません。

 ハイデガーは、エゴというかたちで「自」をまず立てる哲学の根本的な誤りを指摘しています。「自分の世界」の自分性とは、状況的な事態のことであり、主語「私」からではなく、「この自分にとって」という間接的なかたちでしか与えられない。「私が」見るのが世界ではなくて、「自分にとって」現れるのが世界である、と言うのです。ハイデガーのこの指摘は、私たちが具体的に「自分の世界」をどう理解しているかを考えると、よく納得できます。


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 今日の読売新聞に、「ネットで医師暴走、医療被害者に暴言・中傷」という記事がありました。ネット上で発信する医師たちが、医療事故の被害者・支援者への個人攻撃や中傷などを行い、遺族が精神的な二次被害を受ける例が絶えないとの内容です。
 平成11年7月に起きた東京都杉並区の割り箸死亡事故の裁判においては、医師の無罪が平成20年に確定した後、「医療崩壊を招いた死神ファミリー」「被害者面して医師を恐喝、責任転嫁しようと騒いだ」などと両親を非難する医師の書き込みがネット上に相次いだそうです。そして、亡くなった4歳の男の子の母親は、「発言することが恐ろしくなった」と語っていたとのことです。

 ハイデガーが述べたとおり、自分は「世界のうちにいる」状況的存在であり、「自分にとって」現れるのが世界であるのならば、そのように思う医師が(肩書きではなく1人の人間として)そのように思うこと自体は、他の人間が止めることは不可能です。匿名の掲示板には本音の部分が出ることに加えて、人間が内心でそのように思うことそのものは、他人には如何ともし難いからです。
 現状を憂慮した日本医師会の生命倫理懇談会は、こうしたネット上の加害行為につき「専門職として不適切だ」と戒める報告書をまとめたそうです。しかしながら、外に出せない人間の本音は、心の奥底でますます強まることと思います。

 北川氏が述べるように、人間が遭遇するぎりぎりの限界状況にあってこそ、「存在とは何か」という問いは真の意味を持つように私にも思われます。4歳まで育てた息子を突然の事故で喪ったこと、その後の10年近い裁判によって医師の無罪が確定したこと、このような限界状況において問いが無数に発生し、特定の主義主張を先取りする問いを削ぎ落とす過程において必然的に問われてしまっている問いは、哲学的な存在論の問いに他なりません。

 そして、まさに「私が」見るのが世界なのではなく、「自分にとって」現れるのが世界なのであれば、このような限界状況は、経験した当事者でなければわからないというそのことだけは、当事者以外にも理解が可能であるように思われます。また、このことを理解している(大多数の)医師の方々は、遺族らを個人攻撃し、「自称被害者のクレーマー」「責任をなすりつけた上で病院から金をせしめたいのか」などと書き込む気にはなれないものと思います。