犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

永井均著 『これがニーチェだ』

2010-03-31 00:28:27 | 読書感想文
p.7~

 ニーチェは世の中の、とりわけそれをよくするための、役に立たない。どんな意味でも役に立たない。だから、そこにはいかなる世の中的な価値もない。そのことが彼を、稀に見るほど偉大な哲学者にしている、と私は思う。
 哲学を何らかの意味で世の中にとって有益な仕事と見なそうとする傾向は根強い。哲学ということの意味がどれほど一般に理解されないかが、そのことのうちに示されていると私は思う。ニーチェのなかには、およそ人間社会の構成原理そのものと両立しがたいような面さえある。彼は、文字通りの意味で反社会的な(=世の中を悪くする)思想家なのである。
 それにもかかわらず、いやそれだからこそ、ニーチェはすばらしい。他の誰からも決して聞けない真実の声がそこには確実にある。もしニーチェという人がいなかったなら、人類史において誰も気づかなかった――いや誰もがうすうす気づいてはいても誰もはっきりと語ることができなかった――特別な種類の真理が、そこにははっきりと語られている。だが、その真理は恐ろしい。


p.9~

 彼は、それまで誰も問わなかったひとつのことを、そしてその後もまた誰も問わなくなってしまったひとつのことを問うた。つまり、彼は余計なことをしたのだ。偉大な――と後から評される――哲学者は、少なくとも彼が生きていたその時点ではまったく余計なことをしていた人である。
 哲学は主張ではない。それは、徹頭徹尾、問いであり、問いの空間の設定であり、その空間をめぐる探究である。だから、哲学における主張は、それが切り開いた空間の内部に、必ずその主張に対する否定の可能性を宿しているし、問いの空間の設定それ自体もまた、その空間自体を位置づける更なる対立空間を暗に設定してしまっている。
 思想家として見れば、ニーチェは完全に敗北した。彼は、世界解釈の覇権を完全に奪われた思想家である。ニーチェに思想的な意義があるとすれば、それはこの敗北の完璧さにあるだろう。その敗北の完璧さによって、逆に、ニーチェは今日の時代の本質を射貫いている。マルクスにはなお復活の可能性があるが、ニーチェには、ない。もしあなたが、ニーチェに頼って元気が出るような人間であるなら、ニーチェ的批判のすべては、あなたに当てはまるのである。


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 『超訳 ニーチェの言葉』などニーチェの偽物である。ニーチェが世の中の役に立つわけがなく、いかなる世の中的な価値もない。しかし、現実には『超訳 ニーチェの言葉』が全国の書店に平積みにされ、ニーチェの言葉によって励まされた人がおり、実際に世の中の役に立っている。私はこの光景を見て、商業戦略に乗せられた偽物のブームは一瞬で去り、本物の永井氏の本が細く長く読み継がれるはずだと思う。
 この私の心情が、「売れるものが正しいとは限りない」という価値空間を捏造するルサンチマンであるならば、やはりニーチェは余計なことをした人であり、偉大な哲学者であると思います。

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