犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

曽野綾子著 『言い残された言葉』

2010-03-11 23:01:53 | 読書感想文
p.95~

 今ではほとんど聞かれなくなった言葉だが、昔、私の母の時代には「遠慮」というものが世間でかなり通用していた。はにかみとか遠慮とかいうものは時にはめんどうくさいと思うことも多かったが、ほとんどそういう美徳が消えてしまった今考えてみると、人間の精神を鍛える上で、かなり有効なものであったと思われる。

 遠慮とは遠くまで考えを及ぼすことだ。イマジネーションのない人には、できない精神の操作である。今の若い人は、人間とも思えないほど本を読まない人が多いから、「深謀遠慮」などというすばらしい言葉も見たことはないかも知れない。これは遠い先のことを慮ることである。「近慮」という言葉はないが、作るとすれば先のことがわからないこと。「短慮」も考えが浅いこと、つまり深く考えないことで、こんなふうに周囲の位置関係を考えてみると、遠慮はますます含みのある知的言葉に思えてくる。

 私は過去に23年間、年に1度ずつ、約2週間、障害者と海外旅行をして来た。旅が終ってお別れの時には涙をこぼすような友情を築いてきた。友情ができる基本的な原則はお互いに「尊敬」を持ったかどうかなのである。だから障害を持っているかどうかなどは全く関係ない。日本に帰ってからは、同じ旅行をした人たちは、泊まりに行ったり訪ねたり、外出のサポートをしたり親戚づきあいをしている。

 障害者のスポークスマンを自認しているような人は、健常者の言動に少しでも差別があれば「人権運動」としてそれを叩いて行こうということになっているのかもしれないが、そういう動きは、私の多くの友人である「心底強靭な精神と輝くような知性・悟性を持っている、体は不自由でも心は自由な人たち」の足を、むしろ引っ張っていると私は感じている。


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 文化庁の国語に関する世論調査の結果を受けて、ここ数年、「役不足」「破天荒」「さわり」「憮然」「煮詰まる」などの言葉の意味がちょっとした問題となりました。言葉によって選ばれるべき意味が先にあり、それゆえに人は言葉を用いて話ができるものである限り、「日本語の乱れか変化か」という問題意識はつまらないと思います。

 現代の日本で「遠慮」という単語を耳にするのは、「携帯電話のご利用はマナーモードに設定し、車内での通話はご遠慮下さい」などの場面が典型的です。「ご遠慮」ばかり使うことによって、人間が遠くまで考えを及ぼす能力が衰え、その結果として「深謀遠慮」ができなくなるならば、日本人が日本語に使われた皮肉な結果だと思います。