犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「返してくれ」以外に何を言えというのか

2009-06-02 23:25:21 | 国家・政治・刑罰
朝日新聞 6/2朝刊 社会面・被害者参加裁判の記事より

前橋地裁では、昨年11月に集団暴行で亡くなった定時制高校生小指直樹さん(当時17)の両親が、傷害致死罪などで起訴された17~18歳の少年の公判に参加している。5月14日の公判は連続開廷の3日目。父親は被告の少年(18)への質問の途中で「直樹を返せ。返してくれよ」と泣き崩れた。「ごめんなさい」と泣く少年への質問は、母親が泣きながら臨んだ。

少年の弁護人は、被害者参加が少年により深い反省を促す有益な面もある一方で、「裁判での規律は守るべきで、『返してくれ』と叫んだりするのは好ましくない。被害者には弁護士が付き添っているのだから、弁護士が代わって質問するなど被告への配慮も必要だ」と指摘する。

***************************************************

「『返してくれ』と叫ぶのは裁判の規律違反であって好ましくない」といった言葉に囲まれて過ごしていると、人間の深い所から絞り出された叫びが、すべて平板な感情に姿を変えてしまう。規律によって「返してくれ」という叫びが消えるのであれば、誰も苦労はしない。やはり、この種の政治的な規律論を聞き続けていると、人間の何か大事な部分を瞬間的に掴み取る能力が麻痺してしまう。科学的実証主義は、「返してくれ」という問いに対し、大真面目で「実際に返せるか・返せないか」という解答をもって相対する。そして、「実際には返せない」という解答が明らかであるゆえに、この問いは無意味であると結論付けられる。しかしながら、この問いを問う者は、誰もそれが可能だとは思っていない。不可能であるからこそ問わざるを得ない、この逆説を把握しない者にとっては、この種の問いは単なる規律違反の嫌がらせである。そしてこの落差は、逆説を把握する者を一方的に苦しめる。

「何百回、何千回『返してくれ』と繰り返しても、なぜ彼は帰ってこないのか」。この問いの意味を把握しない者にとっては、これは机上の空論の抽象的な苦しみにしか見えない。しかしながら、この問いは不可能を不可能と知りつつ自らの足元に穴を掘る問いである以上、感傷的な甘えは皆無であり、好きで自ら生み出した苦しみに酔っているものではない。この問いは、現に問えば問うほど苦しくなることを知り抜いた上で問うているという意味で、究極の具体的な苦しみである。もちろんこの苦悩は、自分で自分を責めているものではあるが、いわゆる「自虐」という概念とは全く異なる。自虐は情緒的であり、自ら選び取られるものであり、その上で他者からの同情と慰めの言葉を待つものである。これに対して、最愛の人が帰って来ることを望み、それを言葉によって表現する者は、他者からの慰めの言葉が更なる苦しみを生むことを知っている。

犯罪被害者参加制度においては、被害者・遺族側にも弁護士が付き添っており、訴訟の技術的な面については被害者よりも弁護士のほうが適任である。しかしながら、人間の言葉には、本人が言うのでなければ全く意味をなさないものがある。弁護士が被害者遺族に代わって「息子を返してくれ」と言ったところで、そこに言われている「息子」は弁護士の息子ではないという単純な現実において、言葉として意味をなしていない。「息子を返してくれ」という逆説的な要求は、絶望的な運命に囚われた者が、その全人生と全生活を賭けたものでなければ、単に相手方を困らせるだけの嫌がらせになってしまうからである。このような研ぎ澄まされた具体的な言葉に比べれば、「裁判の規律違反」「弁護士が代わって質問」といった言葉は、単に時と場所によって変わる抽象的なルールである。被害者参加制度が実現されなければならなかった最大の動因が、「息子を返してくれ」という言葉にあるとすれば、その言葉を言うことができない裁判にどれだけの意味があるのか。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。