犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東野圭吾著 『手紙』

2008-11-15 21:12:03 | 読書感想文
p.134~

「兄貴が刑務所に入ってたら弟は音楽をやっちゃいけないっていう法律でもあるのかよ。そんなものないだろ。気にすることないじゃないか」
 むきになって語る寺尾の顔を直貴は見返した。こんなふうにいってくれることは涙が出るほどうれしかった。だが彼の言葉をそのまま受け取るわけにはいかなかった。彼が嘘をついているとは思わない。今は本心なのだろう。しかしそれは一時の自己満足によるものだとしか直貴には思えなかった。


p.320~

「犯罪者の家族もまた被害者なんだから広い心で受け入れてやらねばならない、そんなふうに教えるんじゃないのかな。学校だけじゃない。世間の人々の認識もそうだ。君の兄さんのことは職場でも噂になったと思うが、そのことで嫌がらせのようなことをされたかね」
「いいえ」 直貴は首を振った。「むしろ、以前よりも皆さんが気遣ってくれます」
 直貴の答えに満足したように社長は頷いた。
「君に対してどう接すればいいのか、皆が困ったのだよ。本当は関わり合いになりたくない。しかし露骨にそれを態度に示すのは道徳に反することだと思っている。だから必要以上に気を遣って接することになる。逆差別という言葉があるが、まさにそれだ」


p.386~

「俺はやっぱりあの人たちを許す気にはなれない。あの2人が土下座して謝るのを見てて、俺、何だかすごく苦しかった。息が詰まりそうだった。その瞬間、社長からいわれたことの意味がはっきりと理解できた」
「どういうこと?」
「正々堂々としていればいいなんてのは間違いだってことにさ。それは自分たちを納得させているだけだ。本当は、もっと苦しい道を選ばなきゃいけなかったんだ」


p.403~

 直貴は前にここへやってきた時のことを思い出した。遺族に詫びねばと思いながら、いざ彼等の姿を目にすると、あわてて逃げ出した。
 あの時のツケを俺は払わされたのかもしれない。これまでのことを振り返り、直貴は思った。もしもあの時彼等に詫びていたなら、別の道が開けていたかも知れない。少なくとも、今ほど卑屈な人間にはなっていなかったかもしれない。

 
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毎年7月1日から1ヶ月間、法務省の主唱により、「社会を明るくする運動」という活動が行われている。今年も全国各地で新聞やテレビ等による広報を行っていたが、例によって知名度は低い。この運動は、すべての国民が、犯罪の防止と罪を犯した人の更生について理解を深めることを目的としている。それでは、法務省はこの運動に際して、加害者の家族の苦悩を描いた東野圭吾氏のベストセラーである『手紙』を推薦することはあるのか。この可能性は皆無である。「罪を犯した人の更生について理解を深める」というのは、このような人間の深いところを突く小説に触れるという趣旨ではない。法務省が目指しているのは、公共施設に「ふれあいと 対話が築く 明るい社会」という標語のポスターを貼って、国民を啓発することである。これはもちろん建前であり、偽善である。

前科者や出所者に対する社会の対応は、本来イデオロギーの右左の問題ではない。机上の空論ではなく、人々の生活に密着した心理の問題である。これを偏見や差別意識、人権意識というパラダイムで一刀両断にする手法は、人間の営み全体における位置づけの考察を欠いている。人権意識の向上というパラダイムは、国民が犯罪者やその家族に対して瞬間的な警戒心や違和感を持つことに対してさえ、人権感覚の欠如という評価を下し、一種の後ろめたさを強制する弊害をもたらした。このような硬直した理論では、犯罪者やその家族に対する社会の偏見や差別意識はいつまでもなくなることがない。人権論は、1つの完結した宇宙として、その中だけで閉じてしまった。このようにして捉えられた人間像には、心の襞のようなものがなく、人物に厚みがない。犯罪者の社会復帰についての社会の対応は、本来は他者に問う種類のものではなく、自己に問う種類のものである。

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