犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東野圭吾著 『さまよう刃』 その2

2008-09-14 23:07:21 | 読書感想文
p.159~ 長峰重樹の手紙

 伴崎敦也殺害事件を担当しておられる警察関係の皆様へ。
 私は、先日荒川で死体となって発見された長峰絵摩の父親、長峰重樹です。どうしても皆様にお伝えしたいことがあり、筆をとらせていただきました。
 すでに御明察のことと存じますが、伴崎敦也を殺したのは私です。
 動機は、これまたお話しする必要もないかもしれませんが、娘の復讐です。

 妻を何年も前に亡くした私にとって、絵摩は唯一の肉親です。かけがえのない宝でした。彼女がいたからこそ、どんなに苦しいことも耐えられましたし、これからの人生に夢を抱くこともできました。
 そんな何ものにも代え難い宝を、伴崎敦也は私から奪いました。しかもそのやり方は、残忍で、狂気に満ちたもので、人間性のかけらさえ感じることができません。私の娘を、まるで家畜のように、いいえそれ以下の、ただの肉の塊として扱ったのです。
 私はその様子をこの目で見ることになりました。人間の皮をかぶっただけのけだものたちは、絵摩を蹂躙する様子をビデオカメラにおさめていたからです。
それを目にした時の私の気持ちをわかっていただけるでしょうか。
 私が悲しみのまっただ中にいる時、伴崎敦也は戻ってきました。彼にとっては最悪のタイミングだったわけです。しかし私にとっては、恨みを晴らす絶好の、そして唯一のチャンスでした。
 彼を殺したことを、私は少しも後悔しておりません。それで恨みが晴れたのかと問われますと、晴れるわけがないとしか申せませんが、もし何もしなければ、もっと悔いることになっただろうと思います。

 伴崎は未成年です。しかも、意図的に絵摩を死なせたわけではなく、たとえばアルコールや薬の影響で正常な判断力が損なわれていた、などと弁護士が主張すれば、刑罰とはとてもいえないような判決が下されるおそれがあります。未成年者の更生を優先すべきだ、というような、被害者側の人間の気持ちを全く無視した意見が交わされることも目に見えています。
 事件の前ならば、私もそうした理想主義者たちの意見に同意したかもしれません。でも今の考えは違います。こんな目に遭って、私はようやく知りました。一度生じた「悪」は永遠に消えないのです。たとえ加害者が更生したとしても(今の私は、そんなことはあり得ないと断言できますが、万一あったとしても)、彼等によって生み出された「悪」は、被害者たちの中に残り、永久に心を蝕み続けるのです。
 もちろん、どういう理由があろうとも、人を殺せば罰せられることはわかっております。すでに私はその覚悟ができています。
 しかし、今はまだ逮捕されるわけにはいきません。復讐すべき人間は、もう一人いるからです。もはやそれが誰かということも警察は掴んでいるだろうと想像します。

 私は何があっても復讐を果たします。それまでは捕まらないつもりです。そのかわりに、復讐を果たした時には、その足で即座に自首いたします。情状酌量を求める気はありません。たとえ死刑が宣告されても構いません。どうせ、このまま生きていても意味のない人生なのです。
 こんなふうに書いたところで、何の意味もないことはよくわかっております。今頃皆様は、私の行方を追っておられることでしょう。その方針が、この手紙によって変更されることなど期待しておりません。
 ただ、私の知人、友人、そして親戚に対する、不必要に厳しい捜査は遠慮していただきたいのです。私には共犯者はおりません。すべて私が一人で考え、行動していることです。定期的に連絡をとっている者もおりません。
 これまで私たち父娘は、様々な方に支えられてきました。その皆さんに、御迷惑をかけたくなくて、このような手紙を書きました。
 この手紙が無事に、捜査の第一線におられる方々の手に渡ることを祈っております。


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この手紙が実際の裁判で問題になる場合

長峰重樹が伴崎敦也の殺害を自認した部分は、「被告人が作成した供述書で被告人の署名のあるもの」であり、かつ「その供述が被告人に不利益な事実の承認を内容とするもの」と認められるため、これを証拠とすることができる(刑事訴訟法322条1項本文前段)。また、その他の部分も「特に信用すべき情況の下にされたもの」と認められるため、これを証拠とすることができる(刑事訴訟法322条1項本文後段)。もっとも、単なる感情の吐露に止まるため、量刑資料としてはともかく、要証事実に対する証拠価値は少ない。

また、関連性が認められなければ証拠能力のある証拠とはいえず、公判廷で取り調べることが許されない。関連性とは、自然的関連性と法律的関連性に分けられるが、証拠が要証事実の存否の証明に役立ちうる性質のことである。長峰の手紙については、筆跡鑑定や指紋鑑定が問題となる。そして、技術と経験のある鑑定士によって正確な機械が使用され、鑑定の過程にも不正がなく、検査結果の保管も厳重であり改竄がみられないといった要件が充足されれば、筆跡鑑定や指紋鑑定の結果に証拠能力が認められる。その他、長峰には不当な圧力は掛けられていないため、違法収集証拠にはあたらない。


・・・法治国家における刑事裁判は、1つのフィルターとなって、1つの世界を表出させる。これらを構成する概念は、一旦形成されてしまえば、そこからしか物事を見ることができなくなる。日常用語は専門用語に比べて曖昧であり、不正確であり、論理的に劣っているとのパラダイムが、実に多くの言葉を殺してきた。

村上政博著 『法律家のためのキャリア論』

2008-09-13 20:20:36 | 読書感想文
9月11日に合格発表のあった第3回新司法試験の合格率は、33%に低迷した。日本弁護士連合会は7月18日、「法曹人口問題に関する緊急提言」を採択し、合格者の数を抑えるように提言したが、それに沿った結果となった。日弁連の提言は、司法制度改革に基づく法曹人口の増員が法曹の質の低下を招いている事実を重視するものであった。表向きの理由としては、法科大学院など法曹養成システムが成熟途上にあること、一部の法科大学院で厳格な成績評価や修了認定がなされておらず、教育が十分に行われているかが不安であることが挙げられている。しかし実際には、弁護士を希望しながら就職先が決まっていない司法修習生が平成19年から平成20年で倍増していること、弁護士の平均年収が約2100万円から約770万円に大幅ダウンしたことなどが本当の理由ではないかとの声もある。

村上政博氏は、司法制度改革に基づく法曹人口の増員に対して大きな期待を寄せている。日本の弁護士の人口は、国民全体の人口比で見ると、アメリカに比べてはるかに少ない。これでは日本国民が良質の司法サービスを受けることができないため、早急に制度を改める必要がある。グローバルな時代を迎えて、日本は今のままでは国際的に生き残れない。従って、日本の法曹界も、アメリカの基準に合わせて変わる必要がある。アメリカでは、一切に法廷に立たず、企業法務の専門家として投資銀行やコンサルティングファームに就職する弁護士も多い。日本も法曹人口が増えれば、アメリカのようになる。今後は、弁護士であるというだけでは厳しくなり、それ以上のスキルやセールスポイントの獲得が求められる。そのためにも、法曹人口の増員により、切磋琢磨することによって、法曹の質を向上させることが必要である。・・・これらが村上氏の見解である。

さらに村上氏は、今後は法曹人口の増員によって人材流動化の時代を迎え、法律家の職務も多様化し、法律家の人気がますます高まると予想している。弁護士の中でもキャリアや能力によって経済的格差が生まれ、ある者は渉外弁護士や企業法務担当者として、またある者は役人の中枢ポストに就き、学者としても活躍の場を広げる。従来、法律にまつわる職業は参入規制で守られ、独特の世界を築いてきたが、これからは規制緩和の時代である。弁護士の急増に伴って格差や競争は激化するが、それこそが法曹の質の向上をもたらし、国民に良質の司法サービスをもたらすことができる。そして、仕事ができない弁護士はどんどん淘汰され、合格者が出せない法科大学院もどんどん淘汰され、日本はグローバルな時代に相応しい理想的な司法国家となる。村上氏の見通しはこのようなものであった。日弁連の緊急提言と比べてみると、同じ理由からなぜか正反対の結論に至っている。

切磋琢磨による自然淘汰が法曹の質の向上をもたらすと言われていたのに、いつの間にか同じことが法曹の質の低下をもたらすということになってしまった。これは現代社会のあちこちで見られるように、地に足が着いていない大上段の制度設計が、現実の生身の人間の一度きりの人生からの反抗を受けている図式である。能力の劣る弁護士や法科大学院がどんどん淘汰されることは、抽象的な高みの見物をしている限りは望ましいことである。しかし、淘汰された側の一度きりの人生は、どこへ行けばいいのか。妻子を抱えて仕事を辞めて法科大学院に行き、3回とも不合格になってしまった40代の男性は、どうやって人生を立て直したらいいのか。弁護士になりたくても就職できず、なっても仕事がない。すなわち、「食えない」。食えないことは死を意味する。世の中の多くの問題は、煎じ詰めていけば、最後は「死ぬのが怖い」というところに帰着することが多い。法曹人口増加の賛成反対論も、最後はここに戻ってしまうようである。

森達也著 『死刑』 第3章 軋むシステム

2008-09-11 22:15:50 | 読書感想文
p.149より

「ただ同害報復権のみが、(中略) 刑罰の質と量とを確定的に示しうる。(中略) だが、もし或る者が殺人の罪を犯したならば、彼は死ななくてはならない。この場合には正義を満足させるために何らの代償物もない。よしんばどんなに苦しみに充ちた生にもせよ、生と死のあいだに何らの同質性もなく、それゆえにまた、犯罪者に対して裁判を通じて執行された死(中略)による以外には、犯罪と報復との何らの相等性もない」

―― イマヌエル・カント (カント全集 第11巻 人倫の形而上学)


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死刑を肯定することは、自殺を肯定する論理とリンクする(p.128)。これは何も、「死刑を存置するような国家では人命を大切にしていないから自殺が多いのだ」といった強引な論理を示すものではない。死刑存廃論においては、必ずと言っていいほど「遺族の被害感情はどうするのか」との問題が設定されてきた。そして、遺族は感情的に死刑を叫ぶ集団であるとのレッテルを貼られ、それを抑えるために修復的司法をするといった流れが作られてきた。しかし、殺人犯における殺人行為は3人称の死であり、遺族における最愛の者の死は2人称の死であるとするならば、そこでは無意識的に人称が飛ばされている。すなわち、1人称の死である。この被害者の1人称の死と釣り合うものは、殺人犯の1人称の死しかない。

2人称の死を中心に構造が作られれば、死刑は遺族における仇討ちの代行であるとの捉え方が一般的になる。そして、現代では遺族は仇討ちができないのだから、せめて国家が死刑を執行しなければならないという考え方が広く支持を集めている。しかしながら、論理的には、もう一つその前段階がある。死刑は遺族の仇討ちの代行である前に、殺人犯自身の自害の代行である。この1人称の死は、「自殺」ではなく「自害」でなければならない。この1人称の自害を中心として、2人称の仇討ち、3人称の生命刑が派生する。これが論理の順序である。内的倫理の追求、自責の念が一次的であるとすれば、自らによる自らに対しての処罰が論理的に先に来る。殺人犯が自らの罪悪に気付いたとしたならば、その残虐さに直面して、遺族と同じくらいに「こんなに苦しいならば死んでしまいたい」との気持ちになるはずである。罪刑法定主義はこの論理を転倒させたが、人間の存在形式の論理は動かない。

近年では、「自殺する勇気がなかったため人を殺して死刑になろうと思った」という種の殺人も生じている(p.122)。そこで、このような殺人を防ぐために死刑を廃止すべきであるとの逆方向の抑止力の議論も出てくるが、これは文字通り本末転倒である。本当に死にたいのであれば、他人に迷惑をかけないで自殺すればよい。自殺する勇気がないというのは、死ぬ勇気がないということである。それならば、死刑になる勇気もないはずである。死ぬ勇気があるのであれば、自殺も死刑も受け入れられるはずであり、死ぬ勇気がないのであれば、自殺も死刑も受け入れられないはずである。いずれか一方だけを受け入れることができるという状態は、人間の生死の存在形式に矛盾する。しかも、本人がそのことを理解していない。すなわち、「他人を殺しても自分は死刑になりたくない」という一般的な弁解から外に出ていない。

名ばかり管理職

2008-09-10 00:11:53 | 言語・論理・構造
「名ばかり管理職」の手法を思いついた人は、経営者としては才覚があり、人間としては下品である。企業の業績を上げるためには、3つの経営資源、すなわち「ヒト・モノ・カネ」を合理化する必要がある。そして、「ヒト」に関する合理化がリストラであり、人件費の削減である。人件費削減という単語は、「公務員」とセットにして使われるときだけはプラスになるという変な言葉である。民間企業においては、まともに人件費を削減しようとすると、経営者としては面倒なことになる。人件費削減の順序は、①役員数削減・役員報酬カット、②福利厚生費削減、③残業制限・労働時間短縮、④採用抑制・自然減、⑤派遣・パートの契約解除、⑥昇給停止・賞与削減、⑦配置転換・出向、⑧希望退職、⑨退職勧奨、⑩整理解雇であるとされているが、従業員は誰しも生活がかかっている以上、なかなか調整が難しい。ここで、「名ばかり管理職」の手法を使えば、かなりの部分が穏便に収まる。多くの経営者が飛びついたのも当然である。

名ばかり管理職の横行は、法律の条文の限界を示すものであった。労働基準法41条2号には、「事業の種類にかかわらず監督・管理の地位にある者、機密の事務を取り扱う者は、休憩および休日に関する規定の適用除外者である」と規定されている。これはもちろん、時間的制約に縛られると業務に支障が出てしまうような高位の管理役職を想定した条文である。ところが、そのような立法趣旨など、法律を守りたくない人にとっては何の意味もない。法律の抜け穴は、法律の側にあるのではなく、抜け穴を探そうとする人間の側にある。かくして、言葉が嘘をつき、人間が言葉に使われる。「私はこの『監督・管理の地位』を広義に解釈しております」、「私は広範囲の労働者が『管理監督者』に含まれるとする見解を支持しております」という命題を、文法上の虚偽だと断定できない。法律の条文を細かく整備し、厳密に定義すればするほど、どういうわけかますます抜け穴が増える。これは絶望的なスパイラルである。

名ばかり管理職の手法が横行した原因には、従業員のほうが肩書きを欲しがるということもある。人間は、お金だけのために働くものではない。意味のある仕事に使命感を持って取り組み、会社を通じて自己実現を図るという側面がなければ、労働は続かない。愛社精神があれば、サービス残業も従業員のほうから自発的に行われる。このような状況にある多くの従業員にとっては、その肩書きが自らのアイデンティティを確認するための重要な要素となる。会社内における出世や昇進は、単なる外聞や見栄ではなく、自己確認の重要な手段となり、人格そのものとなる。会社内では、その肩書きが固有名詞の代わりをする。かくして人間は、時にはお金よりも肩書きを欲しがる。そして、お金を伴わない地位や名誉を欲しがる。このような従業員の習性を見抜き、名ばかりの管理職に持ち上げて腹の中で笑っている経営者は、ビジネスマンとしては非常に才覚があり、人間としては非常に卑しい。

名ばかり管理職の問題点は、実体と名称の乖離であるとされている。実を捨てて名を取ったが、やっぱり名はいらないから実が欲しい。そこで、労働基準法41条2号『管理監督者』とは何かがまた問題となり、新たな判定基準が立てられている。すなわち、①経営者と同じ立場で仕事をしていること、②出社・退社や勤務時間に厳格な制限を受けていないこと、③その地位にふさわしい待遇がなされていること、の3点である。このような分析的な視点が、一刀両断に問題を解決したためしがない。その原因は、言語論的転回を経てみればわかる。「名ばかり管理職」と呼ばれ始めた瞬間、それは「名ばかり管理職」という名前がつけられるからである。「名ばかり管理職」は、それ自体1つの名前である。そして今や、「十分な権限も報酬も得ていないのに管理職扱いされて、残業代を支給されない従業員」という公式な定義までできてしまった。こうなれば、「管理監督者」という名称と実体があり、「名ばかり管理職」という名称と実体があり、それが論理的に同等のものとして並列してしまう。名前というものは、それほどまでに恐ろしいものである。

客観性を追求するとグダグダになる

2008-09-08 22:44:49 | 実存・心理・宗教
大相撲の北の湖理事長(55)が本日、両国国技館で開かれた理事会において、理事長職を辞任する意向を示した。大麻使用疑惑が持たれているロシア出身の兄弟力士、幕内の露鵬(28)と十両の白露山(26)は解雇が決まったとのことである。去る8月18日、同じロシア出身力士の若ノ鵬(20)が大麻所持の疑いでに逮捕されたが、現役力士の大麻取締法違反が問題となるのは大相撲史上初の不祥事であった。その後若ノ鵬は解雇されたが、現役力士の解雇も史上初の不祥事であった。本来、同じような不祥事が続けば、論理的には事態は一層深刻になるはずである。ところが、なぜか同じような不祥事が続くと、「史上初」の衝撃が薄れてしまう。そして、いつの間にか慣れてしまうのが妙なところである。

ロシア出身力士の逮捕の一報を聞いて、大相撲を国技とする日本国民は、大体同じようなことを考えたはずである。すなわち、国技というパラダイムにおいて、外国人力士を招聘することの難しさである。これは、ここ数年間の不祥事続出の相撲界において、ずっと言われてきたことでもあった。「国技の国際化」という言い回しが聞かれるが、これは端的に語義矛盾である。国際的には大麻が合法化されている国もあり、文化の違いは如何ともし難い。そして、親方の監督不行き届きと言っても、力士は成人した立派な大人であり、そう簡単に行くはずもなかった。外国人力士の中でも、ブルガリアの琴欧洲やモンゴルの白鵬は十分に日本文化に溶け込んでおり、日本人力士以上に人気を集めている。このような力士はいいとしても、そうでない力士が孤立して問題を起こすのは、必然的なことだったのではないか。多くの日本国民は、事件の一報を聞いて、瞬間的に本質的な問題を捉えていたと思われる。

時が進むことによって、十分な議論の時間も与えられることになる。そして、議論は徐々に深まり、問題は解決に向かうはずであった。ところが、現実の議論はグダグダになってしまった。原因は例によって、「客観性の追求」「客観的な事実の確定」である。ことの起こりは、大麻の簡易検査によって、露鵬と白露山の尿が陽性反応を示したことであった。しかし、本人が大麻の使用を否定し、鎮痛剤でも陽性反応が出ることがあるとの科学的根拠が示されれば、客観的事実は「わからない」ということになる。その後、現代科学の最高クラスの精密な検査結果によって陽性の反応が出ても、本人はあくまでも大麻の使用を否認し、「検査の結果は信用しない」と主張し続けた。そして、弁護士によって、他人の煙を吸った可能性がある、尿検査のコップがすりかえられた可能性があるといった主張がなされた。こうなってくると、やはり客観的事実を決め付けることには躊躇が生じ、真実は「わからない」ということになる。国技のあり方といった大局的な議論をしたくても、まず客観的な事実を確定してからということになると、なかなか最初のところに戻れなくなってしまう。

本人が大麻の使用を頑なに否定している、「だから」本当にやっていないはずだ(シロだ)。本人が大麻の使用を頑なに否定している、「だから」ますます怪しい(クロだ)。本人でない者の評価は、どちらにも転がる。これを決めるものは、最後は好き嫌いである。あるいは、後で責められることを恐れた保身である。いずれにしても、客観性などどこにもない。「わからない」以外の客観性を確定したいならば、哲学的な心身二元論や脳科学の心脳問題を解かなければならず、完全に行き止まりとなる。そして、最先端の科学の力をもってしても、「そんなものは信用できない」と言われてしまえばどうにもならない。客観性を追求すればするほど重箱の隅の隅に入ってしまうどころか、新たな重箱の隅が次々と生じてくる構造である。結局、唯一の客観的事実があるとの幻想のもとに、細部を確定してから全体を構築しようとして、最後はグダグダになってしまうのがオチである。薬物犯罪は「被害者なき犯罪」であり、まだ実害は小さい。これに対して、被害者のある犯罪の被害者は、この構造に苦しめられてきた。「真実を知りたい」「真実を語ってほしい」との思いで裁判を起こしたのに、重箱の隅のグダグダな議論に付き合わされて疲れ切ってしまうからである。


北の湖理事長が辞任、2力士解雇 新理事長に武蔵川親方(共同通信) - goo ニュース

「客観的」と「他人事」

2008-09-07 10:00:37 | 言語・論理・構造
「私は自分自身は客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」。先日の辞任表明の記者会見で、福田康夫首相が最後に述べた言葉が話題を呼んだ。年末の流行語大賞候補だとの声まで起きたそうである。ずっと客観的かつ冷静に会見を続けてきた福田首相が、なぜか最後になって気色ばみ、主観をあらわにして「客観的」と述べたことの面白さである。しかもその発言は、記者からの「総理の会見は他人事のように感じるという国民が多かった」という質問によって引き出されたものであった。「他人事」と言われて、思わず「客観的」だと反論する。しかも、それによって「自分の事」を言われて「主観的」になり、冷静さを失ってしまった。結局福田首相は、その記者の質問に正面から答えなかったようでもあり、むしろ裏側から答えたようでもあり、記者会見は険悪な空気の中で終わってしまった。一国の首相がこのような感情を国民の前に見せたのはなかなか珍しく、何とも言いようのない光景であった。

被害者の意見陳述制度と裁判員制度がほぼ同時期に始まることになり、法曹界では大きな懸念が表明されている。すなわち、客観的な第三者である裁判官の冷静な判断が損なわれてしまうのではないかとの懸念である。これは見事に当たっている。それゆえに、被害者の意見陳述制度と裁判員制度の意味がある。憲法37条は、刑事被告人に対し、公平な裁判所における裁判を受ける権利を保障している。これを受けて刑事訴訟法は、裁判所の公平・中立性を担保するために、起訴状一本主義、訴因制度、予断排除の原則などを定め、当事者主義を採用した。ここでは、人間の主観は誤りを犯しやすく、客観的真実の把握を誤りがちであるとのパラダイムが大前提となっている。そして、被害者は主観的かつ感情的であって誇張や歪曲を行いやすく、厳罰感情に振り回されて真実が語れず、裁判員は情にほだされてしまうのではないかとの批判が生じている。

ところが実際の問題は、この主観と客観の二元論自体の軋轢から起こっている。公平・中立な裁判所は、それによって国民の信頼を得るはずであったが、なぜかその公平・中立性が逆に不信を生んでいるからである。客観的な第三者である裁判官は、法律の条文を見て目の前の人間を見ない。これは「他人事」である。客観的な裁判所は、過去の判例を見て目の前の事件を見ない。これも「他人事」である。言い古された表現として、「もし自分のことだったら、もし自分の家族だったらと考えたことはありますか」という問いがある。裁判官は、この問いに答えてはいけない。答えるや否や、裁判官は客観的な第三者ではなくなり、裁判の公平・中立性を害してしまうからである。「客観的」と「他人事」とは、同じパラダイムの別の表現である。すなわち、肯定的に語られるときは「客観的」であり、否定的に語られるときは「他人事」である。どんな出来事であれ、本当のところは当事者にしかわからず、当事者でなければ語れない。客観性とは、このような主観が集まったところに反転的に生じるものである。人間は、どう頑張ってもこのようにしか存在することができない。

福田首相は、「他人事のように感じる」との質問をした記者に対して、「あなたとは違うんです」と迫った。この文法が成立するためには、福田首相と記者との「自分」が違っている必要がある。すなわち、福田首相にとっての自分は福田首相であり、記者にとっての自分は記者である必要がある。この大前提が成立していなければ、「他人事のように感じる」と言われて腹が立つ理由がないからである。そうなると、同じように、福田首相と記者との「他人」も違っている必要がある。すなわち、福田首相にとっての他人は記者であり、記者にとっての他人は福田首相である。かくして、客観的な視点を取ろうとすると、どちらも自分でどちらも他人であり、主観が客観で客観が主観だという妙な話になってしまう。福田首相が「自分自身を客観的に見ることができる」と言って冷静さを失い、主観的な怒りを表明せざるを得なかったのも尤もな話である。他人を客観的に見ているのではなく、自分を客観的に見ている以上、最後は自分に戻らざるを得ないからである。自分を客観的に見ることは難しいと言われるが、それよりも他人を主観的に見ることのほうがもっと難しい。

加害者の更生と被害者遺族の立ち直り

2008-09-06 00:23:25 | 実存・心理・宗教
政府は9月2日の閣議で、刑事裁判の被害者参加制度について、12月1日に施行することを決定した。この制度についても裁判員制度と同様、賛否両論が渦巻いている。無罪推定ではなく有罪推定が働いてしまうのではないか、裁判員は同情によって中立的な判断が下せなくなるのではないかといった反対論の延長で、「被害者はかえって傷ついてしまう」との論拠が付け加えられているが、これは問題の捉え方が浅い。政治的な賛成・反対論の限界である。被害者が裁判に参加すればかえって傷ついてしまうこと、これは当然の話であるが、それでも参加したいと思う人間の抑えがたい衝動は何なのか。被害者の応報感情を抑えて心のケアをすべきであるといった甘い話ではない。被害者参加制度を利用して法廷で傷つけば、求めていたものとの距離を再認識させられて、「参加しなければよかった」と後悔する。制度を利用せずにいれば、逃げてしまったとの思いに捕らわれて、「参加すればよかった」と後悔する。この進退窮まった絶望的な地点に立ってみなければ、被害者参加制度の意味はわからない。

社会の側から政治的に物事を見てみれば、加害者の更生と被害者遺族の立ち直りは、同じレベルで語られることになる。野蛮な厳罰主義では真の解決は遠く、犯罪被害者遺族へのサポート体制を充実させたり、そのための社会環境をあらゆる角度から根気良く整えるべきだといった政策論である。しかしながら、このような現世的な主張が更に歪みを拡大させていることもまた明らかである。加害者が憎いのではない、彼(彼女)を守れなかった自分が憎いのだ。自分が彼(彼女)に会えないことが悲しいのではない、彼(彼女)が自分に会えないことが悲しいのだ。なかなか立ち直れないから苦しいのではない、自分1人が立ち直ってしまったら彼(彼女)に申し訳が立たないから苦しいのだ、そうかといってずっと立ち直らないことが彼(彼女)にとって良いことか否かがわからないから更に苦しいのだ。遺された家族の問いは、突き詰めればいつもこのような形を採る。しかしながら、経験者でない者には、なかなかこの問いの所在がわからない。そして、例によって、「遺族の復讐感情は強く、心のケアができていないから厳罰を求めるのだ」との安易な解釈がなされる。このような解釈ばかり聞かされていれば、そのうち反論するのも面倒になり、それでもいいという話になってくる。

加害者の更生と被害者遺族の立ち直りを同じレベルで語れば、共通するゴールは「社会復帰」ということになる。過去の辛い事実を乗り越えながら、未来に向かって幸福な人生を送るということである。そして、被害者の家族が孤立感を払拭するための支援体制を整えるべきだといった議論になる。しかし、加害者と被害者遺族の「社会復帰」は同じレベルで並ぶものではない。前者は、本人が社会に復帰したいのに社会がそれを拒むという動きを示すが、後者は、社会が受け入れを示しているのに本人がそれを拒むという動きを示す。加害者にとっても被害者遺族にとっても、その事件は宇宙から消し去りたい事実であるが、時間は戻ることがない。ここで加害者は、物理的な時間の流れに従っていれば、その通りに時間は流れてゆく。事件の風化や記憶の忘却も、加害者の社会復帰というゴールに合致するように作用する。これに対して、遺された家族の時間は、その日で止まってしまう。再び動かしたいとも思わない。死者と共に在るためには、時間を動かしてはならないからである。そうかといって、物理的な時間は動く以上、そこに止まっている自分の身は哀れになる。進むも地獄、進まないも地獄である。被害者遺族でない者が、この地獄への想像を欠きつつ被害者遺族の立ち直りを論じるならば、すべての議論は的を外す。

更生という字義の本来からすれば、加害者が事件のことを片時も忘れず、常に反省の念を持ち続けることの倫理的優位性は動かない。しかし、現実の日常の生活に復帰するという目的からすれば、事件の記憶を忘れたいという欲求のほうが必然的に強くなる。人間は幸福を求める生き物である。そして、嫌な過去は忘れたい。また、病気や老い、苦しみや死をできる限り遠ざけて、楽しい人生を送りたい。「社会復帰」によって加害者や被害者遺族が復帰する社会とは、このような人間が集まった場所のことである。これは、多くの加害者にとっては迷わず復帰したい場所であるが、被害者遺族にとってはなかなか苦しい。特に現在の経済社会、情報化社会においては、幸せになることは義務であり、絶対的な正義となっている。金儲けに裕福な生活、若さに美貌、地位に名誉を求めることが社会常識である。そして、このような言葉が主流になれば、加害者に対して亡くなった被害者のことを一生忘れように求めるような言葉は、単に不愉快なものになる。ゆえに、加害者が事件のことを忘れることは簡単であり、それによって「社会復帰」は見事に完結する。これに対して、遺された被害者の家族においては、このような形での「社会復帰」は苦しみとなる。死を遠ざける社会から、「孤立感を払拭させてあげることが重要だ」「1人で悩んでないで相談しましょう」と言われても、完全にピントがずれる道理である。加害者の更生と被害者遺族の立ち直りは、同じレベルで論じることができない。

生きていてくれればそれだけでいい

2008-09-04 23:42:54 | 国家・政治・刑罰
人生とは、生と死、自己と他者、現在と過去が矛盾する場において存在する。この矛盾は、正確に語ろうとすればするほど上手く語れず、どこか腑に落ちなくなる。これは、逆説によって直観的に伝えるしかない。そして、相互に他者における直観を喚起し、その所在を示すものとして優れているのが、「生きていてくれればそれだけでいい」という言葉である。人生が生と死、自己と他者、現在と過去が矛盾する場において存在する以上、この原始的な言葉の力は、論理的には衰えることがない。ところが、現代の客観性信仰、さらには複雑な社会システムは、この直観の喚起を妨害する言説を語ってきた。もちろん、社会のシステムの維持という目的からすれば、哲学的な生死の問題は遠ざけたいところである。また、経済活動や未来志向のイデオロギーにとって、哲学的思考が邪魔であることも疑いない。しかしながら、一度その上げ底の下にある大問題を見抜いてしまえば、いつまでも上げ底の上で解決を図ろうとしても、何かが違うというもどかしい思いだけが残る。

命は地球より重い。これは端的な現実である。他方、悲惨な戦争を経験し、その反省の下に平和な社会を築き上げた日本は、年間1万人近い交通事故の死者と3万人以上の自殺者を生むシステムを目の前にして、どうすることもできていない。これも端的な現実である。現代の客観的・物理的な世界においては、この2つの現実をめぐって、噛み合わない議論が続いている。命は地球より重く、命はお金で買えない。それにもかかわらず、現代の客観的・物理的なシステムは、人間の死による損害を「逸失利益」という形で経済的に見積もることを可能にした。あるいは、生命保険に入っていれば「万一の死亡事故のときも安心だ」というシステムを作り上げた。ここには、「人の命はお金では絶対に買えない」という命題と、「人の死による損害はお金によって客観的に計算できる」という命題のせめぎ合いがある。

この2つの命題は、形而上と形而下の住み分けが維持される限り、相互に侵食することはない。しかしながら、存在が生活を包含し、実存が生存を包含する限り、形而上的な現実は常に形而下的な現実に侵食され続ける。特に、為替相場や株価の上下を目にすることが避けられない資本主義社会、さらには物価の上昇が庶民レベルの恐怖として襲い掛かっている現代の日本においては、形而上的な現実はますます見えにくくなっている。「本当はお金など欲しくないのだ、元に戻してほしいのだ」と口を酸っぱくして訴えても、現実に消費者金融に追われて目の前のお金のことで頭が一杯の人に対しては、言わんとしていることが何も伝わらない。「もし生き返らせてくれるならば、いくらでもお金を払う」と言っても、現実に派遣労働者の賃金の問題が主流になっている日本社会では、この逆説的な言い回しの逆説性は伝わりにくい。

「生きていてくれればそれだけでいい」との端的な現実を述べるや否や、現代社会においては、それは非現実的だとの噛み合わない反論を受けてしまう。もしも九死に一生を得ても、体に障害が残った場合、その後の長い人生は一体どうなるのか。莫大な治療費はどうするのか。延々と続く介護はどうするのか。本人と周囲の仕事はどうするのか。現実的な問題を考えると、生き延びるよりも逝ってしまった方が本人にとっても周りにとっても幸せだったのではないか。このような「現実」を、具体的な数字を挙げて問われれば、「とにかく生きていてほしかった」という主張は旗色が悪い。しかし、それにもかかわらず、この非現実的と言われるところの思いがどうしても消えない現実のほうは、果たして現実的ではないのか。元気で動き回ることができなくなってもいい、ただそこに居てくれればいい。この思いが抑えがたく湧き上がってくる現実のほうも、現実を考えていることに他ならないのではないか。具体的な論拠によって導き出される結論は半面の真理であるが、具体的な論拠に反して導き出される結論は逆説的な真理である。

生と死、自己と他者、現在と過去が矛盾する場における議論は、自分が自分である、世界が在る、人は生きて死ぬといった基本的な命題から論じるのでなければ、逆説的な真理を取り逃がすことになる。特に、お金の問題から入ってしまうと、この入口は完全に逆になる。喪失の悲しみを癒そうとする心のケアの技術も同様である。問題の根本は、もっと基本的で原始的なことである。そして、その現実は、「生きていてくれればそれだけでいい」という言葉において端的に表れる。障害を抱えて生き延びればお金の心配が増えると言われたところで、そのような心配ができなくなった状況が実際のこの世の現実であり、だからこそこの現実が唯一の現実であることの不可解さに直面している現実のほうはどうするのか。論理の力によって人間が一瞬にして捉える現実は、世間一般に現実問題と言われるところのお金の問題よりも、論理的に先に来る。客観的・物理的世界の唯一性を前提とした理論は、人間を無理に一定の枠にはめ込み、それによって一刀両断の結論を導こうとしてきた。現実に起きた死を「現実」として受け入れさせようとする作為である。それでも、「生きていてくれればそれだけでいい」という命題だけは、どうしても否定することができていない。

岩瀬博太郎・柳原三佳著 『焼かれる前に語れ』   続き

2008-09-02 21:05:32 | 読書感想文
岩瀬教授はこの本の中で、社会の安全と福祉の維持のために死因究明制度の改善と情報公開が必要である旨を訴えている。言い古されたことであるが、この世の政治や法律は、社会の安全と福祉の維持のためにある。近年の法学の細分化と医学の細分化は、法医学による横のつながりを要請することとなった。日本法医学会教育委員会によれば、法医学とは、「医学的解明助言を必要とする法律上の案件・事項について、科学的で公正な医学的判断を下すことによって、個人の基本的人権の擁護・社会の安全・福祉の維持に寄与することを目的とする医学」のことである。しかし現実には、一旦細分化した学問を横につなげることは容易なことではない。法律家は多くの場合には医学の素人であり、医師は多くの場合には法律の素人である。弁護士の準備書面は医師の鑑定書の引用ばかりであり、裁判官の判決も鑑定書の丸写しであるといった状況もある。

言語は世界を作り、抽象名詞は構造を作る。専門用語は構造を作り、構造は人間の意識を規定する。変死体の死因や身元を究明する法医学は、専門用語によって言語の限界を押し広げてきた。そして、科学技術の発達によって「病死」と「事故死」の区別がつけられるようになった。しかしながら、この抽象名詞がひとたび使われるようになると、それは世界の構造にフィルターをかけることになる。例えば、日本人の死因は欧米と比べて心不全が多いが、これは食生活の違いなどが原因ではなく、日本の医師の特徴を表すのものだと指摘されたことがある。すなわち、「心不全」という概念は、日本の文化においては遺族に比較的受け入れられやすい。従って、原因がよくわからない場合には、心不全ということにしておけば済んでしまう。日本の医師にとって、「心不全」はあいまいで便利な概念だということである。専門化は言語の壁を作る。一旦専門家によって死因が心不全であると言われてしまえば、多くの場合、その死因は心不全となる。

抽象名詞は構造を作り、人間の意識を規定する。下手に死因という概念があることによって、その死因と言われるところのものが逆に見失われることがある。すなわち、ひとたび死因を「自殺」ということにすると、すべてのものがその死因に向かって動き出す。残されたあらゆる証拠が、その死因に関連性を持って吸い寄せられてゆく。人間は言葉に使われ、言葉は嘘をつく。こうして、自殺の動機を証明する証拠が次々と上がってしまえば、もはや死因を「殺人」とすることは難しい。これは、抽象名詞の構造を別の線から捉え直すことの大変さの意である。一般に言われているような、過去の客観的・物理的な事実の認定の話ではない。例えば、外表の検視における誤認が司法解剖で判明することがある。極端な例として、検視では頭部の外傷が死因と思われていたのに、解剖の結果として死因は肝臓の損傷であったと判明したこともある。ここで重要な事実は、解剖が行われなかった場合、「客観的な死因は肝臓の損傷であった」と言うことができない点にある。解剖が行われなかった場合、客観的な死因は、あくまでも頭部の外傷である。逆に言えば、これが客観性でなければ、唯一客観的であるはずの科学において医療訴訟の争いは起きない。

死因という概念は、1つの命名権の獲得である。これは言語というものの特質である。ネーミングの有名な例として、2001年5月1日に一瞬にして「浦和市」や「大宮市」が「さいたま市」に変わったことがあった。ネーミングとは権力の発動であり、数の力である。自分はたとえ1人になっても「さいたま市」などは認めない、「大宮市」と呼び続けるのだと宣言したところで、それが世間に認められることはない。大宮市は一夜にしてさいたま市になってしまったからである。死因の確定というものは、実はこれと同じ理屈である。どんなに科学が客観性を追究しても、最後のところでは言語によって表現せざるを得ない。そして、客観性を志向する人間の数だけの「神の目」が仮構される以上、これは個々の人間が置かれた立場による有利・不利の争いとなる。従って、死因を決めるものは権力となり、数の力となる。「こんなことが死因だとされてはたまらない」という声が高まれば、それは死因ではなくなる。そして、死因がわからなければ、残された家族はいつまでも苦しみ、その後の人生も大きく変わることになる。死因を語りうる者が死因を語りたがらない以上、死因究明制度の改善と情報公開は、社会の安全と福祉の維持のために不可欠である。