犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

宮崎哲弥・藤井誠二著 『少年をいかに罰するか』

2008-09-19 10:54:10 | 読書感想文
p.324~

藤井: 大げさな言い方だと批判されるかもしれませんが、私自身も含めて、少年法を研究し擁護してきた人々のアイデンティティは、被害者やその遺族の慟哭を踏み台にしていたのですよ。それに気がつかなかったのは愚かです。そこをきちんと総括して、自己反省してからでないと、被害者の言い分に向き合うのは不誠実だと思う。それをしないで、場当たり的に被害者の問題に関わろうとしても、そういう人たちの欺瞞を被害者の人々は見抜きます。


p.339~

藤井: 被害者側にしても、訴訟の動機は、民事訴訟を通じて事実が知りたいのです。しかし、そのために、そうした泥沼の戦いを3年から4年しなければならない。これはこれまで全然触れられてこなかった少年法の問題だと思うんです。しかも、民事裁判では弁護士が少年にすごく厳しい追及をする。被害者側弁護士は刑事記録も他の資料も全部とり寄せて読んでいます。弁護士は少年にたいして容赦しません。
宮崎: 弁護士は(検察官が少年審判に関与すると)少年が萎縮するとか健全育成によくないなどと主張しますが、ただの二枚舌みたいですね。法律界なんてタテ割りの世界です。少年法やってる人は、みなさん刑事法の特別法として専攻しているから、民事は対象外なのかもしれない。


p.361~

宮崎: 日弁連が被害者の問題を等閑視してきたのは、日本の法学教育そのものに問題があるんです。刑事法の場合、被害者のことなんか考えません。学者も考えないし、学生も教わらない。刑法・刑事訴訟法・刑事政策の授業で、被疑者・被告人・受刑者の処遇問題などは物凄く細密に教わるけれど、被害者学はどうでもいいような選択科目にすぎない。そういうところで学習している法曹や法律学者、ジャーナリストたちが、被害者に注意が行かないのは当然です。これはある意味では無理もない。法学の体系がそうなっているからです。


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教育は言語によって構造を作り、世界を作る。世界は言語そのものであり、言語で語られたように世界は見える。これは、一般に言われるところの世界観のことではなく、世界観を成立させている世界そのもののことである。従って、教育を受けた者の世界は、教育を与えた者によって全く変わる。これが教育の重要性である。そして、この重要性は、義務教育も専門教育も変わるところがない。むしろ、専門教育は多くの場合、その教育を受けた者におけるものの見方を一生にわたって固定する。この世界は、全く別の専門教育を受けた者の世界と抵触し、相互にその世界の安定を脅かす者を攻撃し合う。一度作り上げてしまった世界はその中に生きる人々の人生そのものであり、今さら「間違っていました」と言ってしまっては取り返しがつかないことになるからである。

なぜ目の前に被害者がいるのに被害者が見落とされてきたのか、その答えは刑事訴訟法の判例集を見てみればすぐにわかる。八海事件、白鳥事件、練馬事件、狭山事件、草加事件、甲山事件、高田事件、袴田事件、杉山事件、浅井事件、若松事件、名張毒ぶどう酒事件、鹿児島夫婦殺し事件、調布駅前事件、高輪グリーンマンション事件などなど、これだけの判例を読み込めば、その読者にとってそれ以外の世界は存在しなくなる。ここで急に犯罪被害者保護が必要だと言っても、生活に密着した言葉は出てこない。「被害者は大黒柱を失って収入が減少し、医療費等の出費は増える一方、ローンも払えなくなり、残された家族の就業も事実上制限されるばかりか、不慣れな裁判所、警察や行政官庁に対してストレスを感じ、裁判に関する手続に出席する時間の捻出も大変なのです」といった判で押したような言葉が繰り返されるだけである。