犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『残酷人生論』 「生死」より

2008-09-27 21:15:50 | 読書感想文
「死んだ人は生きている」より(p.24~27)

私は、他人の死というものを、「悲しい」というより、むしろ「おかしい」「変だ」というふうに感じる。というのは、死んだ人は死んでいるのだから、自分の死を悲しいとは思っていないはずなのだから、悲しいと思っているのは、したがって、死んだその人ではなくて、生きている人の側である。そんなふうな視点をもつと、人の死を悲しむというのは、かえって何かこう分を越えたことをしているような気持ちに、私はなる。

人は、お葬式というあのセレモニーによって、いったい「何を」しているのだろう。「死者を送る」「冥福を祈る」「弔辞を読む」、これらすべて、死んだ人は生きていると思っているのでなければ、あり得ない行為ではないか。死んだ人は生きている、何らかの形で存在していると思っているのでなければ、人が死者のために何かをするなど、あり得ないはずではないか。しかし、そう思っているなら、なぜ人はお葬式で悲しんでいるのか。

生きていた人が死ぬ、死んで居なくなる、ということは、どう考えても変なことだ。人がそれを「変だ」と思うより、「悲しい」と思うことが多いのは、人生という出来事を、形式の側からではなく内容の側からのみ見ることに慣れているからだ。人生の内容とは、自分は誰かであって、苦しみとか喜びとかの感情とともに、前方へ向かって生きているといったような意味的内観である。対して、人生の形式とは、ほかでもない、生死というこの枠である。枠それ自体は、無時間、非意味、非人称である。


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喜びはプラスの感情であり、悲しみはマイナスの感情である。従って、悲しみから立ち直ることはプラスであり、いつまでも悲しみから立ち直れないことはマイナスであって、周囲の者は立ち直りを支援しなければならない。これが一般的に言われるところの幸福論である。しかし、生死という枠の側を突き詰めてみれば、これは単なる現世利益の中途半端な思想であることがわかる。人間は誰しも必ずいつかは死ぬ。従って、一度きりの短い人生なのだから、苦しいことが多い人生よりも、楽しいことが多い人生のほうが得である。ゆえに、悲しみから早く立ち直ったほうがよい。立ち直りの支援は、このような善意に基づいている。しかしながら、避けがたく湧き上がってくる問いとは、他人の死の「悲しさ」ではなく「おかしさ」である。生きていた人が死んで居なくなるということは、どう考えても変なことである。人間は大人になるにつれ、この子供の頃の直観を忘れる。

人間が幸福を求めるのは、いずれ死が訪れることを心のどこかで知っているからである。それゆえに、目の前の他者の死から目を逸らそうとし、忘れようとし、それを幸福であると結論付けようとする。人生を形式の側からではなく内容の側からのみ見ていれば、それでも話は済む。しかし、他者の死の「悲しさ」はそれで誤魔化せても、「おかしさ」を誤魔化すことはできない。立ち直りとは、一般に他者の死を認めることであると考えられている。現実に死者は死んでいるのだから、その現実を受け入れられないことによって苦しみが生じるのであって、現実を受け容れれば苦しみを克服できるとの常識論である。ところが、それによって見過ごされて遠ざけられるのは、いずれ訪れるべき自らの死という最大の現実である。人生の形式、生死の枠を置き去りにしたまま、他者の死による悲しみや立ち直りを論じることはできない。このような理屈を一言で逆説的に述べれば、「死んだ人は生きている」ということになる。目の前に姿がない人のことを思い続けることは、現世利益では説明のつかない幸福であり、喜びである。