犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

森達也著 『死刑』 第3章 軋むシステム

2008-09-11 22:15:50 | 読書感想文
p.149より

「ただ同害報復権のみが、(中略) 刑罰の質と量とを確定的に示しうる。(中略) だが、もし或る者が殺人の罪を犯したならば、彼は死ななくてはならない。この場合には正義を満足させるために何らの代償物もない。よしんばどんなに苦しみに充ちた生にもせよ、生と死のあいだに何らの同質性もなく、それゆえにまた、犯罪者に対して裁判を通じて執行された死(中略)による以外には、犯罪と報復との何らの相等性もない」

―― イマヌエル・カント (カント全集 第11巻 人倫の形而上学)


***************************************************

死刑を肯定することは、自殺を肯定する論理とリンクする(p.128)。これは何も、「死刑を存置するような国家では人命を大切にしていないから自殺が多いのだ」といった強引な論理を示すものではない。死刑存廃論においては、必ずと言っていいほど「遺族の被害感情はどうするのか」との問題が設定されてきた。そして、遺族は感情的に死刑を叫ぶ集団であるとのレッテルを貼られ、それを抑えるために修復的司法をするといった流れが作られてきた。しかし、殺人犯における殺人行為は3人称の死であり、遺族における最愛の者の死は2人称の死であるとするならば、そこでは無意識的に人称が飛ばされている。すなわち、1人称の死である。この被害者の1人称の死と釣り合うものは、殺人犯の1人称の死しかない。

2人称の死を中心に構造が作られれば、死刑は遺族における仇討ちの代行であるとの捉え方が一般的になる。そして、現代では遺族は仇討ちができないのだから、せめて国家が死刑を執行しなければならないという考え方が広く支持を集めている。しかしながら、論理的には、もう一つその前段階がある。死刑は遺族の仇討ちの代行である前に、殺人犯自身の自害の代行である。この1人称の死は、「自殺」ではなく「自害」でなければならない。この1人称の自害を中心として、2人称の仇討ち、3人称の生命刑が派生する。これが論理の順序である。内的倫理の追求、自責の念が一次的であるとすれば、自らによる自らに対しての処罰が論理的に先に来る。殺人犯が自らの罪悪に気付いたとしたならば、その残虐さに直面して、遺族と同じくらいに「こんなに苦しいならば死んでしまいたい」との気持ちになるはずである。罪刑法定主義はこの論理を転倒させたが、人間の存在形式の論理は動かない。

近年では、「自殺する勇気がなかったため人を殺して死刑になろうと思った」という種の殺人も生じている(p.122)。そこで、このような殺人を防ぐために死刑を廃止すべきであるとの逆方向の抑止力の議論も出てくるが、これは文字通り本末転倒である。本当に死にたいのであれば、他人に迷惑をかけないで自殺すればよい。自殺する勇気がないというのは、死ぬ勇気がないということである。それならば、死刑になる勇気もないはずである。死ぬ勇気があるのであれば、自殺も死刑も受け入れられるはずであり、死ぬ勇気がないのであれば、自殺も死刑も受け入れられないはずである。いずれか一方だけを受け入れることができるという状態は、人間の生死の存在形式に矛盾する。しかも、本人がそのことを理解していない。すなわち、「他人を殺しても自分は死刑になりたくない」という一般的な弁解から外に出ていない。