犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

岩瀬博太郎・柳原三佳著 『焼かれる前に語れ』   続き

2008-09-02 21:05:32 | 読書感想文
岩瀬教授はこの本の中で、社会の安全と福祉の維持のために死因究明制度の改善と情報公開が必要である旨を訴えている。言い古されたことであるが、この世の政治や法律は、社会の安全と福祉の維持のためにある。近年の法学の細分化と医学の細分化は、法医学による横のつながりを要請することとなった。日本法医学会教育委員会によれば、法医学とは、「医学的解明助言を必要とする法律上の案件・事項について、科学的で公正な医学的判断を下すことによって、個人の基本的人権の擁護・社会の安全・福祉の維持に寄与することを目的とする医学」のことである。しかし現実には、一旦細分化した学問を横につなげることは容易なことではない。法律家は多くの場合には医学の素人であり、医師は多くの場合には法律の素人である。弁護士の準備書面は医師の鑑定書の引用ばかりであり、裁判官の判決も鑑定書の丸写しであるといった状況もある。

言語は世界を作り、抽象名詞は構造を作る。専門用語は構造を作り、構造は人間の意識を規定する。変死体の死因や身元を究明する法医学は、専門用語によって言語の限界を押し広げてきた。そして、科学技術の発達によって「病死」と「事故死」の区別がつけられるようになった。しかしながら、この抽象名詞がひとたび使われるようになると、それは世界の構造にフィルターをかけることになる。例えば、日本人の死因は欧米と比べて心不全が多いが、これは食生活の違いなどが原因ではなく、日本の医師の特徴を表すのものだと指摘されたことがある。すなわち、「心不全」という概念は、日本の文化においては遺族に比較的受け入れられやすい。従って、原因がよくわからない場合には、心不全ということにしておけば済んでしまう。日本の医師にとって、「心不全」はあいまいで便利な概念だということである。専門化は言語の壁を作る。一旦専門家によって死因が心不全であると言われてしまえば、多くの場合、その死因は心不全となる。

抽象名詞は構造を作り、人間の意識を規定する。下手に死因という概念があることによって、その死因と言われるところのものが逆に見失われることがある。すなわち、ひとたび死因を「自殺」ということにすると、すべてのものがその死因に向かって動き出す。残されたあらゆる証拠が、その死因に関連性を持って吸い寄せられてゆく。人間は言葉に使われ、言葉は嘘をつく。こうして、自殺の動機を証明する証拠が次々と上がってしまえば、もはや死因を「殺人」とすることは難しい。これは、抽象名詞の構造を別の線から捉え直すことの大変さの意である。一般に言われているような、過去の客観的・物理的な事実の認定の話ではない。例えば、外表の検視における誤認が司法解剖で判明することがある。極端な例として、検視では頭部の外傷が死因と思われていたのに、解剖の結果として死因は肝臓の損傷であったと判明したこともある。ここで重要な事実は、解剖が行われなかった場合、「客観的な死因は肝臓の損傷であった」と言うことができない点にある。解剖が行われなかった場合、客観的な死因は、あくまでも頭部の外傷である。逆に言えば、これが客観性でなければ、唯一客観的であるはずの科学において医療訴訟の争いは起きない。

死因という概念は、1つの命名権の獲得である。これは言語というものの特質である。ネーミングの有名な例として、2001年5月1日に一瞬にして「浦和市」や「大宮市」が「さいたま市」に変わったことがあった。ネーミングとは権力の発動であり、数の力である。自分はたとえ1人になっても「さいたま市」などは認めない、「大宮市」と呼び続けるのだと宣言したところで、それが世間に認められることはない。大宮市は一夜にしてさいたま市になってしまったからである。死因の確定というものは、実はこれと同じ理屈である。どんなに科学が客観性を追究しても、最後のところでは言語によって表現せざるを得ない。そして、客観性を志向する人間の数だけの「神の目」が仮構される以上、これは個々の人間が置かれた立場による有利・不利の争いとなる。従って、死因を決めるものは権力となり、数の力となる。「こんなことが死因だとされてはたまらない」という声が高まれば、それは死因ではなくなる。そして、死因がわからなければ、残された家族はいつまでも苦しみ、その後の人生も大きく変わることになる。死因を語りうる者が死因を語りたがらない以上、死因究明制度の改善と情報公開は、社会の安全と福祉の維持のために不可欠である。

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