犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

性善説と性悪説

2008-09-18 00:04:30 | 国家・政治・刑罰
大阪市の米粉加工会社「三笠フーズ」が、工業用に購入した事故米を食用に転売していた問題は、人々に深い脱力感をもたらした。ここ数年、あらゆる分野で偽装が次々と判明しており、そのたびに色々な対策が叫ばれている。しかしながら、この資本主義社会は、最後まで上手く偽装を通した者が得をし、正直者が馬鹿を見る構造になっている。従って、他者の偽装が判明したならば、それを他山の石として自らの偽装をやめる者よりも、より巧妙に偽装の方法を考える者の方が多くなる。「三笠フーズ」の問題においては、まず消費者の食の安全という視点が浮き上がったが、農林水産省の公表によって菓子メーカーや米穀販売店が大損害を蒙り、農林水産省への批判も高まってきた。こうなってくると、もはやそれぞれの利害が入り乱れて収拾がつかなくなる。

姉歯秀次一級建築士、ヒューザーの小島進社長らによるマンション耐震強度偽装問題が判明したのは、3年前の秋のことであった。それ以降、1つ1つ思い出せないほどの様々な偽装事件が世間を騒がせてきた。ところが人間は、どんなに他者の偽装が判明しても、自らは偽装という行為をやめない。そして、ある者はずらっと並んで謝罪をし、ある者は開き直って弁解をする。また、どんなに毎月のように偽装が判明しても、人間はそれに対して怒りを感じることをやめない。そして、マスコミは正義感において憤慨し、道徳を述べ、偽装した者を激しく非難する。人々は、どんなに偽装が日常茶飯事となっても、偽装に対して泰然自若とした態度を身につけることはない。信頼が裏切られようが裏切られまいが、偽装という行為は、人々に対してなぜか本質的な脱力や憤りをもたらす。

マンション耐震強度偽装問題の後、一種の流行となったのが「性善説から性悪説へ」という言い回しである。監督責任を問われた役人が、「チェックは性善説に基づいており、偽装を想定する性悪説は考えていなかった」という答弁を行ったところ、これが意図せずして深い真実を突いてしまい、マスコミで繰り返し報道されることになった。性善説とは、善は普遍的に存在し、無垢な人間が同族に対して害意を持つ事はあり得ないとの思想であり、孟子(BC372-BC289)によって提唱されたものである。これに対して性悪説とは、人間は往々にして意固地で悪意に満ちており、善意は後天的に習得するものだとの思想であり、荀子(BC313-BC238)によって提唱されたものである。そして、マンション耐震強度偽装問題が生じた根源は、我々が性善説に基づいて社会の構築をしたことであり、我々は今こそ性悪説に立って社会を立て直すべきであるといった主張が声高に叫ばれた。

性善説か性悪説か。2000年以上も前から決着がついていない理論について、21世紀の日本で争ったところで答えは出ない。問題は、3年前の耐震偽装事件のときに叫ばれた「日本は性善説から性悪説へ移行すべきだ」「企業は性悪説に立ってコンプライアンスを徹底すべきだ」との理論が、どのような成果を挙げているかということである。今回の「三笠フーズ」の事件を受けて、また同じことを叫ぶというのでは全く前進がない。性悪説に基づいた理想的な社会の建設という大目標は、どんな時代にも等しくあてはまるがゆえに、2000年以上も同じところで足踏みを続けている。そして、2000年以上も動いていない真実は、偽装という行為が人々に対して本質的な脱力や憤りをもたらすという点である。これは、偽装が悪であるが故に、本能的な善の力が葬られまいとして湧き上がる動きである。すなわち、偽装が善であれば、それは偽装ではない。