犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

マルクス・アウレーリウス著 『自省録』

2008-09-30 20:01:03 | 読書感想文
神谷美恵子氏(訳者)の序文 (p.3~)

プラトーンは哲学者の手に政治をゆだねることをもって理想としたが、この理想が歴史上ただ1回実現した例がある。それがマルクス・アウレーリウスの場合であった。大ローマ帝国の皇帝という地位にあって多端な公務を忠実に果しながら彼の心は常に内心に向って沈潜し、哲学的思索を生命として生きていた。組織立った哲学的研究や著述に従事する暇こそなかったけれども、折にふれ心にうかぶ感慨や思想や自省自戒の言葉などを断片的にギリシア語で書きとめておく習慣があった。それがこの『自省録』として伝わっている手記である。この書物は「古代精神のもっとも高い倫理的産物」と評され、古今を通じて多くの人々の心の糧となってきた。それはテーヌのいうように「生を享けた者の中でもっとも高貴な魂」がこの書の中で息づいているからであり、その魂のたぐいまれな真実さがつねにあらたに我々の心を打つからである。


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ローマ五賢帝の最後の1人として名高いマルクス・アウレーリウス帝(Marcus Aurelius Antoninus、121-180)は、ストア哲学の第一人者としても有名である。ローマ皇帝として絶大な権力を持っていた彼は、戦乱や天災によってほとんど余暇もない中で、この断片を書き留めていた。蛮族との戦いの陣中において、明日の命も知れぬ極限の状況の中で、誰に見せるつもりでもなく、自分自身のためにひっそりと書き留めていた。その皇帝の独白が、2000年の時を経て、今なお世界中で読まれている。ストア哲学は、今でこそ倫理的・禁欲的な哲学であると体系付けられているが、彼自身はストア哲学の第一人者であろうとしたわけではない。時代や場所を超えた人間の感情や葛藤、道義心を随筆的に綴ったところ、それが実際に時代や場所を超えて、何十世紀を経た現代の我々の心を打ったということである。そして、彼の思想は、時代も場所も全く異なる東洋の仏教哲学との共通性も指摘され、世界中の人々の苦悩の処方箋として読み継がれてきた。

神谷氏が述べているように、アウレーリウスの心は常に内心に向って沈潜している。「君がなにか外的な理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ」(第8巻47節)、「君はいつでも好きなときに自分自身の内にひきこもることができるのである」(第4巻3節)といった断片が典型的である。これは、現代の民主主義における政治家の資質とは正反対である。現代の政治家は、何よりも外交的でなければならず、演説が上手くなければならず、しかも裏では策略が上手くなければならない。彼のように自分自身の魂の動きを注意深く見守り、1人の人間としてより善く生きることを目指すような人は、今や最も政治家に向いていないタイプである。人間を人間たらしめるものの中心に倫理学を置き、常に諦念と悟りによって懊悩に向き合っているようでは、選挙戦に勝つことはできない。これがプラトンの述べる哲人政治の難しさであり、神谷氏が述べる「哲人政治の理想が歴史上ただ1回実現した例」の奇跡である。

今や、独裁制、封建制、共産主義はシステムとしては完全に崩壊し、民主主義以上のシステムは存在していない。どんなに民主主義の行き詰まりが明らかとなっても、「もっと良い制度が発明されるまでは民主主義が最善の制度である」と言われ続け、しかも「もっと良い制度」など発明される兆しもない。プラトンの述べる哲人政治は、ここにおいて初めてその意味が明らかになる。マルクス・アウレーリウスのような為政者は、そのシステムが独裁制であっても、共産主義であっても、民主主義であっても、同じように存在することが可能である。特に、民主主義は正義に関する相対主義であり、絶対的な正しさがないゆえに定期的に選挙をやり直すシステムであり、一種のプラグマティズムである。そうだとすれば、選挙のたびに与党と野党がお互いに絶対的な正義を主張して戦い、国民に閉塞感と絶望感をもたらすことは必然的である。また、絶対的な正義を政治的に主張する虚しさを見抜く視点が、哲人政治に存することも明らかである。

選挙のたびに、「今こそ日本を変える」と熱くなっている現代の政治家は、地元の有権者の挨拶回りに忙しく、この2000年前の政治家の言葉を聞いている暇はない。いかなる人間も、長大な歴史の視点から眺めればほんの一瞬しか生きることができず、しかもそのことは人々の記憶の中にとどまることはなく、地位や名声などにこだわっても虚しいばかりである。この虚しさに直面していている限り、その人は選挙に勝つことはできない。そして、国民は政治に期待を持つことができず、あるいは期待を持っては裏切られる。「死後の名声について胸をときめかす人間はつぎのことを考えないのだ。すなわち彼をおぼえている人間各々もまた彼自身も間もなく死んでしまい、ついでその後継者も死んで行き、燃え上っては消え行く松明のごとく彼に関する記憶がつぎからつぎへと手渡され、ついにはその記憶全体が消滅してしまうことを。ともかく君は現在自然の賜物をないがしろにして時機を逸し、将来他人がいうであろうことに執着しているのだ」(第4章19節)。