犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

門田隆将著 『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』 第8章

2008-09-28 00:25:13 | 読書感想文
第8章 「正義を捨てた裁判官」より

p.123~135より抜粋


間もなく上司が駆けつけてきた。「本村君、バカなことは考えるな」。上司は、本村の顔を見るなり、そう言った。本村は、前日、遺書を書いていた。もし、判決が死刑でなかったら、命を絶とう。本村はそこまで思い詰めていた。被害者が2人なら判決は「無期懲役」だろう、と専門家は言う。本村は「被害者が2人なら」という司法の常識が嫌だった。1人であろうと2人であろうと、人を殺めた者が、自らの命でそれを償うのは当たり前のことである。ひとり悶々とした本村は、もし本当に司法がそこまで数字にこだわるなら、抗議のため命を断とう、と思ったのである。自分が死ねば、事件に関して死んだ人間は「3人」になる。そうすれば、社会も声をあげてくれるかもしれない。24歳になったばかりの本村は、そんなことを考えたのだ。

真面目な本村は、パソコンに、一切に滞りが出ないように、引きつぎのすべてを記した。そして、社を出る時、最後に「僕に何かありましたら、パソコンを開いてください」と言ったのである。先輩は、その最後のひと言を聞き逃さなかった。彼は、本村の退社後、本村のパソコンを調べ始めた。パソコンには、前日、本村が書いた遺書も入っていた。そこには、小倉の両親に対して、<先立つ不幸をお許しください。死刑判決が出ない時、命をもって抗議することしか私にはできません>と書かれていた。発見した先輩が直ちに上司に報告し、そのまま上司が本村の寮に駆けつけてきたのである。被害者遺族にとって、判決というものは、そこまで重いものなのである。判決直前に居ても立ってもいられなくなった本村は、気持ちが昂ぶって、ぎりぎりまで自分を追い込んでしまったのだ。落ち着いて考えれば、「死」を選ぶことは、本村にとって最も安易な道だった。

(中略)

「主文。被告人を無期懲役に処する」。渡邉裁判長は、そう言い渡した。その瞬間、弥生の母・由利子は泣き崩れた。本村も滂沱の涙だった。「裁判とは、被害者に配慮する場所ではない」。その言葉が証明された。配慮されるのは、被害者ではない。加害者だけだ。日本の裁判は狂っている。そう思った。判決は、個別の事情には何の関係もない、過去の判例に縛られた単なる「相場主義」に基づいたものだった。判決後、記者会見場に姿を現した本村の怒りは凄まじかった。「司法に絶望しました。控訴、上告は望みません。早く被告を社会に出して、私の手の届くところに置いて欲しい。私がこの手で殺します」。そう言ってのけた青年の迫力に居並ぶ報道陣は、声を失った。やがて、本村は感極まった。「遺族だって回復しないといけないんです。被害から。人を恨む、憎む、そういう気持ちを乗り越えて、また優しさを取り戻すためには……死ぬほど努力をしないといけないんです」

普段、穏やかでクールな吉池検事が、突然、怒りに声を震わせた。目が真っ赤だった。「このまま判決を認めたら、今度はこれが基準になってしまう。そんなことは許されない。たとえ上司が反対しても私は控訴する。これはやらなければならない。本村さん、司法を変えるために一緒に闘ってくれませんか」。涙を浮かべた吉池の言葉に、遺族の方が圧倒された。本村が何もかも手につかなくなり、自殺を考え、自らの命を断つことによって抗議しよう、と思っていたのは、つい昨日のことである。だが、揺るぎない信念と正義感で訴えてくる目の前の吉池の姿に、本村は突き動かされた。この時、本村の頭に初めて「使命」という言葉が浮かんだ。単なる自分の「応報感情」を満足させるだけではない。司法にとって、そして社会にとって、今日の判決がなぜいけないのか、どうしてこれを許してはならないのか、自分も訴えるべきではないか、と思った。それこそが弥生と夕夏の死を本当に「無駄にしない」ことではないのか。


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結論1: 死刑によって命の重さを示すことはできるが、自殺によって命の重さを示すことはできない。

結論2: 何があっても自殺してはならない。