犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

生きていてくれればそれだけでいい

2008-09-04 23:42:54 | 国家・政治・刑罰
人生とは、生と死、自己と他者、現在と過去が矛盾する場において存在する。この矛盾は、正確に語ろうとすればするほど上手く語れず、どこか腑に落ちなくなる。これは、逆説によって直観的に伝えるしかない。そして、相互に他者における直観を喚起し、その所在を示すものとして優れているのが、「生きていてくれればそれだけでいい」という言葉である。人生が生と死、自己と他者、現在と過去が矛盾する場において存在する以上、この原始的な言葉の力は、論理的には衰えることがない。ところが、現代の客観性信仰、さらには複雑な社会システムは、この直観の喚起を妨害する言説を語ってきた。もちろん、社会のシステムの維持という目的からすれば、哲学的な生死の問題は遠ざけたいところである。また、経済活動や未来志向のイデオロギーにとって、哲学的思考が邪魔であることも疑いない。しかしながら、一度その上げ底の下にある大問題を見抜いてしまえば、いつまでも上げ底の上で解決を図ろうとしても、何かが違うというもどかしい思いだけが残る。

命は地球より重い。これは端的な現実である。他方、悲惨な戦争を経験し、その反省の下に平和な社会を築き上げた日本は、年間1万人近い交通事故の死者と3万人以上の自殺者を生むシステムを目の前にして、どうすることもできていない。これも端的な現実である。現代の客観的・物理的な世界においては、この2つの現実をめぐって、噛み合わない議論が続いている。命は地球より重く、命はお金で買えない。それにもかかわらず、現代の客観的・物理的なシステムは、人間の死による損害を「逸失利益」という形で経済的に見積もることを可能にした。あるいは、生命保険に入っていれば「万一の死亡事故のときも安心だ」というシステムを作り上げた。ここには、「人の命はお金では絶対に買えない」という命題と、「人の死による損害はお金によって客観的に計算できる」という命題のせめぎ合いがある。

この2つの命題は、形而上と形而下の住み分けが維持される限り、相互に侵食することはない。しかしながら、存在が生活を包含し、実存が生存を包含する限り、形而上的な現実は常に形而下的な現実に侵食され続ける。特に、為替相場や株価の上下を目にすることが避けられない資本主義社会、さらには物価の上昇が庶民レベルの恐怖として襲い掛かっている現代の日本においては、形而上的な現実はますます見えにくくなっている。「本当はお金など欲しくないのだ、元に戻してほしいのだ」と口を酸っぱくして訴えても、現実に消費者金融に追われて目の前のお金のことで頭が一杯の人に対しては、言わんとしていることが何も伝わらない。「もし生き返らせてくれるならば、いくらでもお金を払う」と言っても、現実に派遣労働者の賃金の問題が主流になっている日本社会では、この逆説的な言い回しの逆説性は伝わりにくい。

「生きていてくれればそれだけでいい」との端的な現実を述べるや否や、現代社会においては、それは非現実的だとの噛み合わない反論を受けてしまう。もしも九死に一生を得ても、体に障害が残った場合、その後の長い人生は一体どうなるのか。莫大な治療費はどうするのか。延々と続く介護はどうするのか。本人と周囲の仕事はどうするのか。現実的な問題を考えると、生き延びるよりも逝ってしまった方が本人にとっても周りにとっても幸せだったのではないか。このような「現実」を、具体的な数字を挙げて問われれば、「とにかく生きていてほしかった」という主張は旗色が悪い。しかし、それにもかかわらず、この非現実的と言われるところの思いがどうしても消えない現実のほうは、果たして現実的ではないのか。元気で動き回ることができなくなってもいい、ただそこに居てくれればいい。この思いが抑えがたく湧き上がってくる現実のほうも、現実を考えていることに他ならないのではないか。具体的な論拠によって導き出される結論は半面の真理であるが、具体的な論拠に反して導き出される結論は逆説的な真理である。

生と死、自己と他者、現在と過去が矛盾する場における議論は、自分が自分である、世界が在る、人は生きて死ぬといった基本的な命題から論じるのでなければ、逆説的な真理を取り逃がすことになる。特に、お金の問題から入ってしまうと、この入口は完全に逆になる。喪失の悲しみを癒そうとする心のケアの技術も同様である。問題の根本は、もっと基本的で原始的なことである。そして、その現実は、「生きていてくれればそれだけでいい」という言葉において端的に表れる。障害を抱えて生き延びればお金の心配が増えると言われたところで、そのような心配ができなくなった状況が実際のこの世の現実であり、だからこそこの現実が唯一の現実であることの不可解さに直面している現実のほうはどうするのか。論理の力によって人間が一瞬にして捉える現実は、世間一般に現実問題と言われるところのお金の問題よりも、論理的に先に来る。客観的・物理的世界の唯一性を前提とした理論は、人間を無理に一定の枠にはめ込み、それによって一刀両断の結論を導こうとしてきた。現実に起きた死を「現実」として受け入れさせようとする作為である。それでも、「生きていてくれればそれだけでいい」という命題だけは、どうしても否定することができていない。

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