犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

名ばかり管理職

2008-09-10 00:11:53 | 言語・論理・構造
「名ばかり管理職」の手法を思いついた人は、経営者としては才覚があり、人間としては下品である。企業の業績を上げるためには、3つの経営資源、すなわち「ヒト・モノ・カネ」を合理化する必要がある。そして、「ヒト」に関する合理化がリストラであり、人件費の削減である。人件費削減という単語は、「公務員」とセットにして使われるときだけはプラスになるという変な言葉である。民間企業においては、まともに人件費を削減しようとすると、経営者としては面倒なことになる。人件費削減の順序は、①役員数削減・役員報酬カット、②福利厚生費削減、③残業制限・労働時間短縮、④採用抑制・自然減、⑤派遣・パートの契約解除、⑥昇給停止・賞与削減、⑦配置転換・出向、⑧希望退職、⑨退職勧奨、⑩整理解雇であるとされているが、従業員は誰しも生活がかかっている以上、なかなか調整が難しい。ここで、「名ばかり管理職」の手法を使えば、かなりの部分が穏便に収まる。多くの経営者が飛びついたのも当然である。

名ばかり管理職の横行は、法律の条文の限界を示すものであった。労働基準法41条2号には、「事業の種類にかかわらず監督・管理の地位にある者、機密の事務を取り扱う者は、休憩および休日に関する規定の適用除外者である」と規定されている。これはもちろん、時間的制約に縛られると業務に支障が出てしまうような高位の管理役職を想定した条文である。ところが、そのような立法趣旨など、法律を守りたくない人にとっては何の意味もない。法律の抜け穴は、法律の側にあるのではなく、抜け穴を探そうとする人間の側にある。かくして、言葉が嘘をつき、人間が言葉に使われる。「私はこの『監督・管理の地位』を広義に解釈しております」、「私は広範囲の労働者が『管理監督者』に含まれるとする見解を支持しております」という命題を、文法上の虚偽だと断定できない。法律の条文を細かく整備し、厳密に定義すればするほど、どういうわけかますます抜け穴が増える。これは絶望的なスパイラルである。

名ばかり管理職の手法が横行した原因には、従業員のほうが肩書きを欲しがるということもある。人間は、お金だけのために働くものではない。意味のある仕事に使命感を持って取り組み、会社を通じて自己実現を図るという側面がなければ、労働は続かない。愛社精神があれば、サービス残業も従業員のほうから自発的に行われる。このような状況にある多くの従業員にとっては、その肩書きが自らのアイデンティティを確認するための重要な要素となる。会社内における出世や昇進は、単なる外聞や見栄ではなく、自己確認の重要な手段となり、人格そのものとなる。会社内では、その肩書きが固有名詞の代わりをする。かくして人間は、時にはお金よりも肩書きを欲しがる。そして、お金を伴わない地位や名誉を欲しがる。このような従業員の習性を見抜き、名ばかりの管理職に持ち上げて腹の中で笑っている経営者は、ビジネスマンとしては非常に才覚があり、人間としては非常に卑しい。

名ばかり管理職の問題点は、実体と名称の乖離であるとされている。実を捨てて名を取ったが、やっぱり名はいらないから実が欲しい。そこで、労働基準法41条2号『管理監督者』とは何かがまた問題となり、新たな判定基準が立てられている。すなわち、①経営者と同じ立場で仕事をしていること、②出社・退社や勤務時間に厳格な制限を受けていないこと、③その地位にふさわしい待遇がなされていること、の3点である。このような分析的な視点が、一刀両断に問題を解決したためしがない。その原因は、言語論的転回を経てみればわかる。「名ばかり管理職」と呼ばれ始めた瞬間、それは「名ばかり管理職」という名前がつけられるからである。「名ばかり管理職」は、それ自体1つの名前である。そして今や、「十分な権限も報酬も得ていないのに管理職扱いされて、残業代を支給されない従業員」という公式な定義までできてしまった。こうなれば、「管理監督者」という名称と実体があり、「名ばかり管理職」という名称と実体があり、それが論理的に同等のものとして並列してしまう。名前というものは、それほどまでに恐ろしいものである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。