犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

落合恵子著 『母に歌う子守唄 その後・ わたしの介護日誌』

2008-09-17 23:28:22 | 読書感想文
● p.18より

難しい医療の専門用語ではなく、ひとがひとに贈り得る、優しく、易しいことばと姿勢……。多くの患者と呼ばれるひとたちやその家族が、医療に求め続けているものも、ひととしての共感であり、その深い共感に基づいた治療や助言であるのだろう。


● p.77より

亡くなる直前のこと。血圧も血中酸素の数値も異様に下がり、彼女は看護師さんを通して、医師を呼んでもらった。急ぐ彼女の思いは、看護師さんには伝わった。10分、15分……。23分たって、担当の医師が廊下の向こうから現れた。

母の手を握って声をかけ、来ない医師を待ちわびて病室のドアのところに走り、またベッドサイドに戻ってという動作を繰り返していた彼女は見た。「それは、別の医師と談笑し、すれ違った看護師さんに何か声をかけてさらに弾けるように笑ってゆっくりと歩いてくる医師の姿でした」

医師にとっては母のような状況は日常の点景のひとつかもしれない。それでも、といま彼女は思う。「最期のあの瞬間、廊下を急ぎ足でやって来る彼の姿を見ることができていたら……、わたしはいま、母を失ったシンプルな悲しみに浸っていられるのかもしれません」


● p.154より

医療はむろん医学的技術と体験と知識が基本だろう。しかし、それだけではない。……あなたたちが診ているのは、それぞれ長い個人史をもった人間なのだ。あなたが聴診器をあてている「部分」だけが、患者の「すべて」ではないのだ。

多くのわたしたちは、目の前にいる愛するひとの看病と介護が優先と、医療の現場での、悪意はないけれど不用意なことばに対する悲しみにも憤りにも蓋をする。患者やその家族は一体、いくつの「蓋」を自分にしなくてはならないのだろう。それは不当だ。そういった日々の中で支えになるのは、誰かからの優しいことばやこころづかいだ。


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患者の権利が叫ばれるようになると、インフォームドコンセントの技術ばかりが先行しがちである。そして、契約書の文字をどんどん小さくし、細かい書類をどんどん増やして誰も読まないという現代社会のビジネスの悪い側面が、医療の現場にも及んでしまう。細かい文言が書いてある同意書にサインした以上、医師は説明を尽くしたことになり、患者はもう文句は言えないとなれば、インフォームドコンセントは逆効果である。生死を契約で語ろうとすれば、必然的に無理が噴出する。患者や家族に張り裂けそうな胸の思いが生じることは、同意書にサインをしても抑えられない道理である。

医療過誤の裁判は、死亡直後の説明におけるわずかなボタンの掛け違いが、巡り巡って双方の膨大な負のエネルギーとなって衝突してしまう例が多い。ここで同意書を持ち出すことは、「なぜ大切な人が亡くならなければならなかったのか」という患者の家族の問いに対する回答としては逆効果である。この場面で必要なものは、数値化できない説明のわかりやすさや、医師の誠意が伝わったか、納得の行くまで説明をしてくれたかといった、医師という立場を超えた人間の言葉の力である。人間としてのほんの少しの想像力を働かせることは、実際にはなかなか難しい。しかし、恐らく膨大な契約書の文言を考えることよりは簡単である。