犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

客観性を追求するとグダグダになる

2008-09-08 22:44:49 | 実存・心理・宗教
大相撲の北の湖理事長(55)が本日、両国国技館で開かれた理事会において、理事長職を辞任する意向を示した。大麻使用疑惑が持たれているロシア出身の兄弟力士、幕内の露鵬(28)と十両の白露山(26)は解雇が決まったとのことである。去る8月18日、同じロシア出身力士の若ノ鵬(20)が大麻所持の疑いでに逮捕されたが、現役力士の大麻取締法違反が問題となるのは大相撲史上初の不祥事であった。その後若ノ鵬は解雇されたが、現役力士の解雇も史上初の不祥事であった。本来、同じような不祥事が続けば、論理的には事態は一層深刻になるはずである。ところが、なぜか同じような不祥事が続くと、「史上初」の衝撃が薄れてしまう。そして、いつの間にか慣れてしまうのが妙なところである。

ロシア出身力士の逮捕の一報を聞いて、大相撲を国技とする日本国民は、大体同じようなことを考えたはずである。すなわち、国技というパラダイムにおいて、外国人力士を招聘することの難しさである。これは、ここ数年間の不祥事続出の相撲界において、ずっと言われてきたことでもあった。「国技の国際化」という言い回しが聞かれるが、これは端的に語義矛盾である。国際的には大麻が合法化されている国もあり、文化の違いは如何ともし難い。そして、親方の監督不行き届きと言っても、力士は成人した立派な大人であり、そう簡単に行くはずもなかった。外国人力士の中でも、ブルガリアの琴欧洲やモンゴルの白鵬は十分に日本文化に溶け込んでおり、日本人力士以上に人気を集めている。このような力士はいいとしても、そうでない力士が孤立して問題を起こすのは、必然的なことだったのではないか。多くの日本国民は、事件の一報を聞いて、瞬間的に本質的な問題を捉えていたと思われる。

時が進むことによって、十分な議論の時間も与えられることになる。そして、議論は徐々に深まり、問題は解決に向かうはずであった。ところが、現実の議論はグダグダになってしまった。原因は例によって、「客観性の追求」「客観的な事実の確定」である。ことの起こりは、大麻の簡易検査によって、露鵬と白露山の尿が陽性反応を示したことであった。しかし、本人が大麻の使用を否定し、鎮痛剤でも陽性反応が出ることがあるとの科学的根拠が示されれば、客観的事実は「わからない」ということになる。その後、現代科学の最高クラスの精密な検査結果によって陽性の反応が出ても、本人はあくまでも大麻の使用を否認し、「検査の結果は信用しない」と主張し続けた。そして、弁護士によって、他人の煙を吸った可能性がある、尿検査のコップがすりかえられた可能性があるといった主張がなされた。こうなってくると、やはり客観的事実を決め付けることには躊躇が生じ、真実は「わからない」ということになる。国技のあり方といった大局的な議論をしたくても、まず客観的な事実を確定してからということになると、なかなか最初のところに戻れなくなってしまう。

本人が大麻の使用を頑なに否定している、「だから」本当にやっていないはずだ(シロだ)。本人が大麻の使用を頑なに否定している、「だから」ますます怪しい(クロだ)。本人でない者の評価は、どちらにも転がる。これを決めるものは、最後は好き嫌いである。あるいは、後で責められることを恐れた保身である。いずれにしても、客観性などどこにもない。「わからない」以外の客観性を確定したいならば、哲学的な心身二元論や脳科学の心脳問題を解かなければならず、完全に行き止まりとなる。そして、最先端の科学の力をもってしても、「そんなものは信用できない」と言われてしまえばどうにもならない。客観性を追求すればするほど重箱の隅の隅に入ってしまうどころか、新たな重箱の隅が次々と生じてくる構造である。結局、唯一の客観的事実があるとの幻想のもとに、細部を確定してから全体を構築しようとして、最後はグダグダになってしまうのがオチである。薬物犯罪は「被害者なき犯罪」であり、まだ実害は小さい。これに対して、被害者のある犯罪の被害者は、この構造に苦しめられてきた。「真実を知りたい」「真実を語ってほしい」との思いで裁判を起こしたのに、重箱の隅のグダグダな議論に付き合わされて疲れ切ってしまうからである。


北の湖理事長が辞任、2力士解雇 新理事長に武蔵川親方(共同通信) - goo ニュース

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