犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

加害者の更生と被害者遺族の立ち直り

2008-09-06 00:23:25 | 実存・心理・宗教
政府は9月2日の閣議で、刑事裁判の被害者参加制度について、12月1日に施行することを決定した。この制度についても裁判員制度と同様、賛否両論が渦巻いている。無罪推定ではなく有罪推定が働いてしまうのではないか、裁判員は同情によって中立的な判断が下せなくなるのではないかといった反対論の延長で、「被害者はかえって傷ついてしまう」との論拠が付け加えられているが、これは問題の捉え方が浅い。政治的な賛成・反対論の限界である。被害者が裁判に参加すればかえって傷ついてしまうこと、これは当然の話であるが、それでも参加したいと思う人間の抑えがたい衝動は何なのか。被害者の応報感情を抑えて心のケアをすべきであるといった甘い話ではない。被害者参加制度を利用して法廷で傷つけば、求めていたものとの距離を再認識させられて、「参加しなければよかった」と後悔する。制度を利用せずにいれば、逃げてしまったとの思いに捕らわれて、「参加すればよかった」と後悔する。この進退窮まった絶望的な地点に立ってみなければ、被害者参加制度の意味はわからない。

社会の側から政治的に物事を見てみれば、加害者の更生と被害者遺族の立ち直りは、同じレベルで語られることになる。野蛮な厳罰主義では真の解決は遠く、犯罪被害者遺族へのサポート体制を充実させたり、そのための社会環境をあらゆる角度から根気良く整えるべきだといった政策論である。しかしながら、このような現世的な主張が更に歪みを拡大させていることもまた明らかである。加害者が憎いのではない、彼(彼女)を守れなかった自分が憎いのだ。自分が彼(彼女)に会えないことが悲しいのではない、彼(彼女)が自分に会えないことが悲しいのだ。なかなか立ち直れないから苦しいのではない、自分1人が立ち直ってしまったら彼(彼女)に申し訳が立たないから苦しいのだ、そうかといってずっと立ち直らないことが彼(彼女)にとって良いことか否かがわからないから更に苦しいのだ。遺された家族の問いは、突き詰めればいつもこのような形を採る。しかしながら、経験者でない者には、なかなかこの問いの所在がわからない。そして、例によって、「遺族の復讐感情は強く、心のケアができていないから厳罰を求めるのだ」との安易な解釈がなされる。このような解釈ばかり聞かされていれば、そのうち反論するのも面倒になり、それでもいいという話になってくる。

加害者の更生と被害者遺族の立ち直りを同じレベルで語れば、共通するゴールは「社会復帰」ということになる。過去の辛い事実を乗り越えながら、未来に向かって幸福な人生を送るということである。そして、被害者の家族が孤立感を払拭するための支援体制を整えるべきだといった議論になる。しかし、加害者と被害者遺族の「社会復帰」は同じレベルで並ぶものではない。前者は、本人が社会に復帰したいのに社会がそれを拒むという動きを示すが、後者は、社会が受け入れを示しているのに本人がそれを拒むという動きを示す。加害者にとっても被害者遺族にとっても、その事件は宇宙から消し去りたい事実であるが、時間は戻ることがない。ここで加害者は、物理的な時間の流れに従っていれば、その通りに時間は流れてゆく。事件の風化や記憶の忘却も、加害者の社会復帰というゴールに合致するように作用する。これに対して、遺された家族の時間は、その日で止まってしまう。再び動かしたいとも思わない。死者と共に在るためには、時間を動かしてはならないからである。そうかといって、物理的な時間は動く以上、そこに止まっている自分の身は哀れになる。進むも地獄、進まないも地獄である。被害者遺族でない者が、この地獄への想像を欠きつつ被害者遺族の立ち直りを論じるならば、すべての議論は的を外す。

更生という字義の本来からすれば、加害者が事件のことを片時も忘れず、常に反省の念を持ち続けることの倫理的優位性は動かない。しかし、現実の日常の生活に復帰するという目的からすれば、事件の記憶を忘れたいという欲求のほうが必然的に強くなる。人間は幸福を求める生き物である。そして、嫌な過去は忘れたい。また、病気や老い、苦しみや死をできる限り遠ざけて、楽しい人生を送りたい。「社会復帰」によって加害者や被害者遺族が復帰する社会とは、このような人間が集まった場所のことである。これは、多くの加害者にとっては迷わず復帰したい場所であるが、被害者遺族にとってはなかなか苦しい。特に現在の経済社会、情報化社会においては、幸せになることは義務であり、絶対的な正義となっている。金儲けに裕福な生活、若さに美貌、地位に名誉を求めることが社会常識である。そして、このような言葉が主流になれば、加害者に対して亡くなった被害者のことを一生忘れように求めるような言葉は、単に不愉快なものになる。ゆえに、加害者が事件のことを忘れることは簡単であり、それによって「社会復帰」は見事に完結する。これに対して、遺された被害者の家族においては、このような形での「社会復帰」は苦しみとなる。死を遠ざける社会から、「孤立感を払拭させてあげることが重要だ」「1人で悩んでないで相談しましょう」と言われても、完全にピントがずれる道理である。加害者の更生と被害者遺族の立ち直りは、同じレベルで論じることができない。

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