犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

福岡小1男児殺害事件 / 鹿沼市自動車水没事故

2008-09-20 18:22:53 | 時間・生死・人生
9月18日、福岡市西区の公園で、小学校1年生の富石弘輝君(6つ)が殺害された。昨日の通夜では、同級生や保護者、学校関係者など約150人が幼い命の冥福を祈った。やりきれない思いと深い悲しみに包まれた会場では、固く口を閉ざしたまま足早に会場を後にする親子も多かったとのことである。今日も現場の公園には多くの花束が手向けられ、人々は手を合わせながら、「どうしてこんな事件が起きるのか」「夢だったらいいのに」「早く犯人を捕まえてほしい」「絶対に犯人を逮捕してほしい」と訴えた。

裁判員制度の導入を控えて、有識者や専門家からは、マスコミが大衆の厳罰感情を煽る行為が問題視されている。そして、「絶対に犯人を逮捕してほしい」という安易な認識が誤認逮捕や自白の強要を産み、厳罰化の温床になっていると言われることもある。しかしながら、6歳で人生を終えなければならなかったという事実の不可解さに直面し、絶望の中で絶句し、何とか絞り出した言葉について、「大衆の厳罰感情」とのレッテルを貼ることが果たして可能なのか。「許せない」「絶対に犯人を逮捕してほしい」との反射的な直感を抑え込まなければならないような人生は、果たして人生の名に値するのか。

捜査の進展により、犯人はわずか2~3分の間に犯行に及んだこと、首には細いひもを二重にして絞めた跡が残っていたことが判明した。そして、公園内からは携帯電話を首からつるすストラップが発見され、犯人につながる有力な物証として鑑定が急がれている。しかしながら、肝心の目撃情報は全くなく、捜査は難航しそうである。この捜査を支えるものは、「絶対に犯人を逮捕してほしい」「絶対に犯人を逮捕しなければならない」との信念以外ではあり得ない。近代国家では無罪の推定が働いている以上、「犯人を逮捕する」という表現は厳密には誤りである。それにもかかわらず、人間の倫理的直観は瞬間的にこの言葉を求める。


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8月16日、栃木県鹿沼市内で、豪雨で冠水した道路に軽乗用車が水没し、運転していた高橋博子さん(45)が死亡した事故があった。この事故では、通報を受けた県警が別の水没事故と混同して出動せず、同市消防本部も通報を受けながら別の事故と混同して出動指令を出しておらず、県警と消防による二重の不手際が判明している。携帯電話から悲鳴とともに母親に助けを求めた博子さんの最後の言葉は「お母さん、さよなら」であった。博子さんの長男は、自宅での取材において、やりきれない表情で、毎晩水没した車の中にいる母親の夢を見てうなされると述べ、「犠牲者は母で最後にしてほしい」と何度も繰り返した。

今日、この事故を受けて、宇都宮中央署などにより車の水没事故を想定した救助訓練が行われた。昨日は、鹿沼署や同市消防本部が、通報受理や指令の合同訓練を実施している。同署管内で関係機関が連携した訓練は初めてであり、事故を教訓とした実践的な再発防止の取り組みが県内各地で始まっているとのことである。さて、このような訓練の様子を目の当たりにして、「二度とこのような思いをする人がいなくなるように」「死を無駄にしないでほしい」との家族の思いは満たされるのか。

これは、恐らくある意味では満たされる。そして、残された者にとってできる限りの最善策でもある。ところが、技術的・政策的なマニュアル、将来に向けれらた制度設計を見せ付けられることは、逆に大きな苦しみをもたらす。再発防止策をされなければ苦しいが、再発防止策をされても苦しい。再発防止策が完璧になればなるほど、戻らない時間と覆らない現実がますます遺された人間を苦しめる。この逆説が、犯罪被害者救済は政治運動ではあり得ないことを示している。