犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

山田風太郎著 『戦中派不戦日記』 その3

2008-08-15 22:24:59 | 読書感想文
人間が歴史の中で生きている限り、歴史認識を巡る議論は絶えない。しかしながら、党派党略による政治的な議論は、単にそれぞれのイデオロギーからの遠近法によって歴史を認識しているだけの話である。従って、収まりがつくことがない。そして、「未来志向」の一言でまとめようとすれば、「過去の清算なくして未来もあり得ない」との反論が起こり、振り出しに逆戻りとなる。

このような党派的な歴史認識を厳しく拒絶するのが、戦争当時の日記や手記の類である。それも、新聞でも書けるような情報を述べたものではなく、克明に自らの心理描写を行ったものである。23歳の山田誠也青年は、(その当時の)現代社会への洞察力を以て、50年後の日本の姿を想像し、さらには後世の歴史家の解釈をも想像して、その過程を余すところなく書き付けた。時代は、いつもこのような人物による1人称現在形においてその姿を現わす。戦争の記憶の風化を防止するのは、このような日記や手記である。


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★ 昭和20年9月1日(土) の日記

 新聞がそろそろ軍閥を叩きはじめた。「公然たる闇の巨魁」といい、「権力を以て専制を行い、軍刀を以て言論を窒息せしめた」といい、「陛下を盾として神がかり信念を強要した」という。そして。――「われわれ言論人はこの威圧に盲従していたことを恥じる。過去の10年は、日本言論史上未曾有の恥辱時代であった」などと、ぬけぬけと言う。
 さて、この新聞論調は、やがてみな日本人の戦争観、世界観を一変してしまうであろう。今まで神がかり的信念を抱いていたものほど、心情的に素質があるわけだから、この新しい波にまた溺れて夢中になるであろう。―― 敵を悪魔と思い、血みどろにこれを殺すことに狂奔していた同じ人間が、1年もたたぬうちに、自分を世界の罪人と思い、平和とか文化とかを盲信しはじめるであろう!
 人間の思想などというものは、何という根拠薄弱な、馬鹿々々しいものであろう。


★ 昭和20年10月17日(水) の日記

 一度は開闢以来のクーデターを思いつつ、ひとたび下った御聖断に、そこまでいっては末代までの不忠の臣となると思いとどまった阿南陸相。聖断に従わんとする上官を斬ってなお戦わんとした将校、マリアナに最後の殴り込みをかけようと飛び立っていった特攻隊 ―― これらの分子を含みつつ、綸言には絶対服従すべきであるとして崩壊していった大陸軍 ―― われわれは、この苦悶の激動の中に、「後世の史家がすべてを証明してくれるだろう」と屠腹の血を以て書き残していった一軍人の叫びに全幅的に共鳴する。


★ 昭和20年11月15日(木) の日記

 突如何を思い出したか平和論一席あり。先日若きアメリカ将校と論ずる機会あり。愛は無限なれど憎は殺戮にて極まる。愛の哲学のすぐるることこの一事にて明らかなりといいしところ、アメリカ将校大いに共鳴せりと。だれだってかかる平凡の論には同意すべし。いったいに教授連の異口同音の平和礼賛ことごとく敗戦の事実とかけ離る。日本に訪れし平和は、剣にて刺されたる屍の静寂にあらずや。

「死に神」表現のその後  続き

2008-08-13 23:57:32 | 時間・生死・人生
生死の感覚は、大人よりも子供のほうが鋭い。人間は子供のとき、不思議な感覚にふっと捕らわれる瞬間がある。夜、ベッドの中で暗い天井を見つめていると、考えのほうが自分に取り付いてくる。何でこんなところに自分がいるのか。よりによって、何でこんな所に宇宙などという空間があって、地球などという星があるのか。宇宙はなぜできたのか。宇宙に果てはあるのか。そして、その宇宙の中に生まれてきた自分は何者なのか。宇宙が自分を押しつぶそうとする。しかも、この宇宙に一度人間として生まれてきてしまった限りは、いずれは死ななければならない。そして、一度死んでしまえば、おそらく二度と生まれてこない。さらには、自分が死んでも宇宙のほうはびくともせず、それどころかいずれ人類が滅亡しても、宇宙はいつまでも存続する。死を考えるとは、このような原始的な恐怖を手放さないことである。殺人罪や死刑もその中に死を含む以上、この論理の要請から逃れることはできない。ゆえに、この恐怖を手放した議論は、人間に対して言いようのない違和感を残す。明確な理由などはつけられない。ここで理由を求めようとすることは、直感という論理形式からすれば転倒である。最初から「それ」を求めれば的を外すが、「違う」を集めていけば、自然と「それ」に対する的は絞られてくる。

近代の物理的・客観的世界のパラダイムは、人間の生死を論じる際にも、子供の時の生死に対する鋭い直観を完全に忘れ去ってきた。客観的世界における「死の恐怖」とは、本来の生死という人間の存在形式に照らせば、非常に鈍い恐怖である。例えば、現代の高齢化社会において恐れられている最大の「死の恐怖」は、孤独死への恐怖である。一人暮らしの孤独な老人が誰にも看取られることなく死亡し、1週間も経てば遺体は腐敗し、異臭によって初めて発見に至る。親族や近所とのコミュニケーションがない者は、1人で寂しく死んでゆき、死後までも近隣に迷惑をかけて恥をさらす。どうせ死ぬとしても、このような死に方だけはしたくない。現在では、社会の隅々までこのような考え方が行きわたっており、ここから逃れることは難しい。「死の恐怖」のレベルが、老後の心配や将来への漠然とした不安、年金制度や医療制度への不安といったものにまで鈍くなってしまえば、突然末期がんの宣告を受けたような場合でもなければ、子供の頃の純粋な恐怖は忘れられる。しかし、この原始的な死の恐怖を手放してしまえば、どんなに殺人罪や死刑を論じたところで、その核心には迫れない。

被害者遺族が加害者の死刑を望むことは、それ自体筆舌に尽くしがたい決意である。死刑であろうとなかろうと、他人の死を望むことには変わりがない。「死ね」、「ぶっ殺す」といった軽い暴言が飛び交い、ファッションとしてドクロマークが流行る現代の日本の中では、1人の人間が生死に真剣に向き合うだけでも凄まじい覚悟を要する。すなわち、好むと好まざると、全人生を賭けた哲学的思考になる。これは、単なる「加害者への報復や憎悪」といった描写に留まるものではない。それゆえに、加害者の死刑を望む遺族は、「死に神」という揶揄的表現の軽さに強烈な違和感を持たざるを得なかった。ここで、その被害者遺族の抗議を再び「報復」「憎悪」と形容したところで、この違和感の源泉が共有できるわけがない。死刑廃止国において凶悪犯罪は増えているのか。死刑の抑止力は実証的に根拠づけられているのか。このような客観的なデータによる勝負がなされれば、間主観を経た上での客観への反転は完全に消えてしまう。これは、人間が狂気に怯えながら自らの生死を問い詰める視点ではない。狂気とは最も遠いところにある政治論である。すなわち、死刑を語って死を忘れるという本末転倒である。死刑の存廃は、時と場所によって変わる相対的なルールの問題にすぎない。それゆえに、死刑存置論であろうと廃止論であろうと、子供のときの原始的な死の恐怖を経ておかなければ、議論はどうにもかみ合わない。

森達也氏は次のように述べる。「被害者遺族の辛さを、僕らはできる限りは想像しなければならない。その苦しみや怒りを少しでも和らげるために、この社会はさまざまな方策を考えねばならない」。しかし、これは入口が逆である。被害者遺族でない者は、被害者遺族の辛さなど想像できない。また、さまざまな方策を考えることなどできない。この大前提に立たなければ、その後の議論もすべて逆になる。人間は他人の人生を生きることができない以上、この世のすべての出来事は、経験した本人でなければわからない。ところが、近代の実証科学はこの単純な事実を無視し、客観的・物理的な世界を信仰してきた。その結果、「経験した本人のみが真実を知る」のではなく、逆に「経験した本人は真実を見失う」ものとされてきた。犯罪被害者は感情的で冷静さを失っており、客観的であるべき裁判に憎悪の感情が持ち込まれれば、論理的で正確な判断ができなくなるといった議論である。この客観性信仰は、間主観の反転を通じた客観性ではないため、人間の生死といった問題には歯が立たない。その結果、経験のない者が経験者に対して真実を語るという転倒を犯してきた。実際のところは、経験のない者には経験者の本当の気持ちはわからない。被害者遺族本人が「死に神表現によって傷つけられた」と言っているのに、森氏がそれを筋違いだと断じるならば、それは語るに落ちている。

「死に神」表現のその後

2008-08-13 22:55:22 | 時間・生死・人生
月刊誌『創』の9・10月号で、森達也氏が、オウム真理教の新実智光被告の手紙を紹介しつつ死刑廃止論を述べている。森氏はその中で、鳩山前法相を「死に神」と表現した朝日新聞の夕刊コラム「素粒子」に関して、新聞社に抗議を行った「全国犯罪被害者の会」と「地下鉄サリン事件被害者の会」を非難している。その上で、森氏は次のように述べている。「もちろん被害者遺族の辛さを、僕らはできる限りは想像しなければならない。その苦しみや怒りを少しでも和らげるために、この社会はさまざまな方策を考えねばならない。でもそれと加害者への報復や憎悪を全面肯定することは、ぜったいに別の位相のはずだ」。ここには、今回の「死に神」表現に関する問題の根深さが見事に表れている。問題の中身が対立しているのではなく、何をどのように問題するのかという形式が全くかみ合っていないからである。

「被害者遺族を保護して救済すべきである。しかし、加害者への報復や憎悪を全面肯定することは別の位相である」。このように言われると、直感的に「何かが違う」と感じる。何がどう違うかという話ではなく、言語の文法が違う、何かがかみ合っていないという違い方である。人間は自分の人生を生きることしかできず、他人の人生を生きることはできない。従って、この世のすべてのことは、実際に経験した者にしかわからない。最愛の人を突然亡くすという経験は、この最たるものである。人間は一度しか生まれられず、一度しか死ねない以上、生死に関する経験は、他者の想像をその論理の形式において厳格に拒む。苦しみを想像してくれるのはありがたいが、違うものは違う。励まされても違うし、慰められても違う。善意であるだけに苦しいが、どうにもピントが外れている。そうであるならば、一致しているのは、「違う」という点だけである。すなわち、「違う」という点のみが「同じ」である。

物事は経験した者にしかわからない。この当然のことがわかることによって、物事は初めてわかる。わからないことがわかり、わからないことによってわかる。他者の苦しみの想像はできるが、実際にはわからない。親を殺された人は子供を殺された人の経験がわからず、子供を殺された人は親を殺された人の経験がわからない。同じ犯罪被害者遺族として括られたところで、その中では相互にお互いの辛さがわからない。ましてや、被害者遺族でない者にとっては、被害者遺族の気持ちなどますますわからない。気持ちがわからないという以前に、最愛の人を突然殺されるとはどのようなことなのか、その事実がわからない。人生の一回性、生死の一回性という人間の存在形式を経てみれば、これも当然のことである。森氏の主張に対する言いようのない違和感は、ここに端を発している。

考えることと生きることは同じであり、すべてが人生である。多くの場合、他者の苦しみは想像するより実際にはもっと辛いものであるが、そのことすら知りようがない。それどころか、現実の現実たる不可解さは、自らの以前の想像をもはるかに超える。これは完全な主観であり、近代の物理的・客観的世界のパラダイムではない。しかしながら、客観性の側から物事を見ると、なぜかすべての議論は逆立ちし、そこに強烈な違和感が生じてしまう。人間は誰しも一度しか生まれることができず、一度しか死ぬことができない。その中核の問題である殺人や死刑について論じているのに、「加害者への報復や憎悪を全面肯定することは別の位相である」と言い切ることが果たして可能なのか。そこには、主観を突き詰めた結果としての客観、すなわち間主観を通じた客観性、反転の過程がない。死刑を考えることは、その中に死を考えることを含む。この世の制度としての刑罰を論じるとしても、大前提として間主観の反転を経ておかなければ、議論はかみ合わずに迷走する。

映画 『クライマーズ・ハイ』

2008-08-12 22:33:06 | その他
● 原作 横山秀夫著 『クライマーズ・ハイ』(文春文庫) p.102~

【御巣鷹山にて=佐山記者】
 若い自衛官は仁王立ちしていた。
 両手でしっかりと、小さな女の子を抱きかかえていた。赤い、トンボの髪飾り。青い、水玉のワンピース。小麦色の、細い右手が、だらりと垂れ下がっていた。
 自衛官は天を仰いだ。
 空はあんなに青いというのに。
 雲はぽっかり浮かんでいるというのに。
 鳥はさえずり、風は悠々と尾根を渡っていくというのに。
 自衛官は地獄に目を落とした。
 そのどこかにあるはずの、女の子の左手を探してあげねばならなかった――。


● 乗客の1人、河口博次さんの遺書

 マリコ 津慶 知代子 どうか仲良くがんばってママを助けて下さい
 パパは本当に残念だ きっとたすかるまい
 原因はわからない いま五分たった 降下しだした どこへどうなるのか
 津慶 しっかりたのんだぞ
 もう飛行機には乗りたくない どうか神様たすけて下さい
 きのうみんなと食事したのは 最后とは
 何か機内で 爆発したような形で 煙が出て 
 ママ こんなことになるとは 残念だ
 さようなら 子供達の事よろしくたのむ
 今六時半だ 飛行機はまわりながら 急速に降下中だ 
 本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している


● 原作 p.406~

「人の命って、大きい命と小さい命があるんですね」
 悠木は息を呑んだ。
 頭は空転していた。それでも彩子の言葉は痛みを伴って胸に染み渡った。
 彩子は続けた。
「重い命と、軽い命。大切な命と、そうでない命……。日航機の事故で亡くなった方たち、マスコミの人たちの間では、すごく大切な命だったんですよね」「父は全然悪くなかったんです。横断歩道を渡っていて、なのに、飛ばしてきたオートバイに轢かれてしまって」「新聞だって忘れちゃったんですよね。父、偉くもなんともなかったし、世の中からいなくなってもどうってことないし。小さくて、軽くて、大切じゃない命だったから……」
 二十歳――悠木の半分しか生きていない娘がメディアの本質を見抜いていた。
 命の重さ。
 どの命も等価だと口先で言いつつ、メディアが人を選別し、等級化し、命の重い軽いを決めつけ、その価値観を世の中に押しつけてきた。


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今日で日航機事故から23年になる。その間、情報化社会は比較にならないほど進化してきた。マスコミへの批判も多いが、人間社会が言語によって形成されることを忘れれば、その批判はまず的を外す。仮にマスコミが何も報道しなければ、憶測や口コミ、流言飛語が飛び交い、事実には面白いように尾ひれが付き、風評被害やパニックが続出することになる。すなわち、一方的にマスコミを責めて済む話でもない。「マスコミは世論を悪いほうに誘導しているのではないか」との主張は、「マスコミは世論を良い方向に盛り上げるべきである」との主張と対になっている。

横山秀夫の原作は非常に心理描写が細かく、しかも行間に多くの余韻を漂わせている。映像はその迫力をもって、文字だけでは伝え切れない多くのことを伝える。しかしながら、映像でも人間の内心は写せない。小説が映像化された場合、それが成功しているのか否か、そのたびに様々な批評がなされる。堤真一と堺雅人の鬼気迫る表情、台詞のない沈黙の時間は、原作の行間に込められた人間の内心を示す。しかし、その劇中の人物を「悠木和雄」と「佐山達哉」として見るのではなく、「堤真一が演じる悠木和雄」と「堺雅人が演じる佐山達哉」として見てしまえば、直覚的な批評はあっという間に逃げてゆく。無私であるがゆえに対象と同一化し、それによって対象が秘密を明かす。映画を批評することは非常に難しい。

“葬式仏教”の弊害

2008-08-10 00:19:46 | 時間・生死・人生
All about 「今からでも間に合う 失敗しない法要(初盆、新盆)の迎え方」より

人が亡くなってから初めて迎えるお盆のことを「新盆」又は「初盆」と呼びます。故人が仏になって初めて里帰りするということで、故人の近親者は盆ちょうちんを贈り(現在では住宅事情などでちょうちんを贈るより1万円から2万円の現金を贈る事が一般的になってきています)、初盆を迎える家では身内や親しい方を招いて僧侶にお経をあげてもらい盛大に供養します。

※読経謝礼(僧侶)の贈答様式
読経をして頂いたあと、精進料理でもてなしますが、僧侶が辞退される場合は「御膳料」を包みます。また、「お布施」は地方や宗派によって違いますので詳しい方にお聞きください。また、自宅に僧侶を招いた場合は「御車代」を包みます。

※金封
水引/黒白か黒白銀か黄白(5本か7本)・双銀の7本か10本
結び/結切りか鮑結び
表書き/「御佛前」「御仏前」か「御供物料」「御ちょうちん代」


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教義として定立された宗教は、人間がまさに「今」「ここ」で感じている生身の感覚を切り離し、図式化・対象化してきた。宗教とは本来、人間の生死を語るものである。そして、人間は死ぬまでは生きるしかなく、生きている間は絶対に死ぬことがない。その意味で、宗教にできることは、我々が日常に普通に感じ取っているありのままの感覚を、そのまま受け止めることだけである。しかしながら多くの宗教は、人間の生死という当たり前の事実に関して、不自然な手間を介在させてきた。それによって、人間が自らの生死について純粋に思索し、他者の死の意味を論理によって突き詰めるという当たり前の作業は、一部の専門家によって奪われてきた。多くの日本人は、僧侶にお経をあげてもらうことによって、自らの頭一つで生死の意味を思索する機会を放棄してきた。このような哲学的思考から離れた日本の仏教は、“葬式仏教”と呼ばれて揶揄されている。

自分よりも前にこの世に生まれており、順番に従ってあの世に行った人については、お盆に里帰りをするという説明も何となく腑に落ちるところがある。一度も会ったことがない先祖や祖父母であっても、お盆にはその霊を祀るのだと説明されれば、なぜか自然と受け入れられる。これに対して、自分よりも後にこの世に生まれており、順番に逆らってあの世に行った人については、どうにも腑に落ちないところがある。人間の生死に関する倫理的直観は、この辺りは非常に敏感である。すなわち、人間がまさに「今」「ここ」で感じている生身の感覚である。そうであるならば、この生身の感覚を「その通りだ」と認めるのが宗教の役割のはずである。ここで、専門家である僧侶が一般人の感覚を否定し、新盆の教義やしきたりのお説教をすることが、宗教の本来のあり方に合致するはずがない。これは“葬式仏教”の悪い側面である。本来、生死を考える立場にあるのは、一度きりの人生を生きて死ぬべき一人ひとりの人間である。

なぜ新盆の金封の水引は、黒白か黒白銀か黄白の5本か7本にするのか。結びは結切りか鮑結びにするのか。元々は深い理由があるはずのしきたりも、その由来すら問われないようになれば、単なる儀式と化する。そして、世間的に恥をかかないためのマナーとしてのみ追求されるならば、それは宗教の本来のあり方からは遠く離れてしまう。世間体やマナーといったものは、人間の生死を思索する行為とは頭の使い方が正反対である。ご仏前を1万円にするか2万円にするか、御膳料やお布施や御車代をいくらにするか、このような問題に頭を悩ませることは、人間の生死を考える哲学的思考にそぐわない。それどころか有害である。宗教とは本来、生きるための思考を切実に必要としている人間に対して、そのありのままの感覚を受け止めるものでなければならない。自らの檀家の葬儀や法事を営み、定期的に収入を得ることで手一杯の“葬式仏教”は、真摯に生死の意味を突き詰めて考える人間を苦しめようとする。そうであるならば、人間のほうが無駄に苦しむ必要はない。

山田風太郎著 『戦中派不戦日記』 その2

2008-08-09 21:07:09 | 読書感想文
★ 昭和20年8月13日(月) の日記

 あぶら胡麻をまいたように蝿のとまっている黒い四角なテーブルに、2人の学生が黙々とかゆをすすっている。かゆは、馬鈴薯と大豆が3割、米粒が2割、あと5割は湯という「箸にも棒にもかからぬ」しろものである。
「おい、原子爆弾は凄えなあ」
と瓢箪が新聞から頭もあげずに呟く。
「これあ、上陸を待たなくっても、これだけで日本は参るぜ」
「おれはそうは思わんな」
 赤い裸電球は暑くるしく、わびしい。油虫が床を無数に這い回っている。まだ皺に泥をくっつけた馬鈴薯が、鈍くまるく光ってザルに積まれている。その陰で、コツコツという淋しい音が、夏の暗い夜を刻んでゆく。


★ 昭和20年8月16日(木) の日記

 日本が負けた。嘘だ!
 いや、嘘ではない。・・・台湾、朝鮮、満州、樺太はもう日本のものではない。日清戦争、日露戦争、満州事変、支那事変、これらの戦役に流されたわが幾十万の将兵の鮮血はすべて空しいものであったのか。旅順包囲軍、日本海海戦、いや維新の志士たちはなんのために生まれたのか?
過去はすべて空しい。眼が涸れはてて、涙も出なかった。


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広島と長崎に原子爆弾が投下された数日後、日本国の庶民の食卓の上にいるのは無数の蝿である。そして、足元を無数に這い回っている油虫とは、おそらく今でいうゴキブリである。蝿やゴキブリの描写、このようなディテールの力は非常に大きい。21世紀の清潔な時代に繰り広げられる抽象論から、一気にドロドロの時代にリアルタイムに引き戻されるからである。確かに原爆のショックに比べれば、目の前で無数の蝿が飛び回ろうと無数のゴキブリが走り回ろうと大したことではない。

戦争責任や歴史認識について論じざるを得ないこと、これは人間の業のようなものである。過去の風化に対して言いようのない焦りを感じることも同様である。しかしながら、現在の価値観を基準にして過去を結果論で見渡すイデオロギーは、人間の時間性に対する考察が薄い。昭和20年の戦乱の最中に生きていた人に対して、平成20年の視点に立てと要求することは、土台無理な話だからである。これは、平成20年に生きる我々が、蝿が飛び回りゴキブリが走り回る部屋で生活しろと言われても無理であることと同様である。ちなみに私は1匹でもダメである。

星野博美著 『愚か者、中国をゆく』

2008-08-07 23:21:14 | 読書感想文
★p.4~
わくわくしながら地図を眺めているうち、だんだん落ち込んで途方に暮れる。どのページにも、丸をつけた町以外に何百という町があり、そこに何千、何万という人が暮らしているのに、それらのほとんどに私は行ったことがないし、人々に会ったこともない。丸で囲まれた1つ1つの町の風景が、そして故郷の話をしてくれた、もう二度と会うことはないであろう人たちの顔が、映像や匂いや、また時には喜びや悲しみといった感情を伴って甦ってくる。そのほんの一部を思い返すだけでも暇つぶしできるくらいなのだから、仮に何百、何千という町を訪れでもしたら、思い出すだけでも一生を費やしてしまう。

★p.209~
たとえばある街で、何ら発見や感動ができないとする。しばらく滞在して何かを発見できればもうけものだが、居続けても何もなければ、それはその街がよほどおもしろみに欠けるか、それとも自分に感受性が欠けているか、原因はそのどちらかでしかない。そして実際、世界には「おもしろくない街」などというものは存在しない。どんな街であれ、旅人に十分な感性があれば、おもしろがることはいくらでもできる。もし「おもしろくない。ここには何もない」という感想を持ったとしたら、それは99パーセント、旅人の感性の責任なのだ。

★p.329~
現在中国に流れる時間のスピードをさらに加速させているものの正体は、飢餓感と危機感だと私は思っている。あまりに平等な社会では、ほとんどのものは手に入らない。そういう状況では、人は特権を渇望するようになる。その特権に対する飢餓感が、長い時間をかけて体内で肥大化した状態で、中国の人々は資本主義の波に飲みこまれてしまったのである。その飢餓感を満たそうと人々が金に飛びついたとしても、その気持ちを私は簡単に否定する気にはなれない。


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ノンフィクションとは、史実や記録に基づいた創作である。そこでは、全くのフィクションとは異なり、現場における綿密な調査や取材が必要となる。しかし、優れたノンフィクションには、フィクション以上に作者の独自色が出ている。それは、対象を見つめつつ自分を見つめていることによる。もちろん、その場合の自分は相対化されている。そして、そのように対象を見つめている自分を、冷めた目でもう一人の自分が見つめている。星野氏にとっては、親日も反日もなく、親中も反中もない。また、わざわざ日中友好などと唱える必要もない。

「チベットのデモに対して武力制圧を図った中国で、平和の祭典を開催させてはならない」。「北京五輪は中止すべきだ。日本は北京五輪をボイコットすべきだ」。イデオロギーは一瞬にして熱く燃え上がり、長野での聖火リレーでも混乱が起きた。しかし、北京五輪の開会式に向けてさらに燃え上がるはずであったイデオロギーは、四川大地震で冷水を浴びせられた。「日本の医療チームが被災地での活動を認められなかったのは、四川省に多く住むチベット人の訴えを恐れたのではないか」。「チベット問題に四川省地震が続いて、五輪どころではないのではないか」。やはり社会に文句を言っても始まらない。北京五輪の開会式である。

山田風太郎著 『戦中派不戦日記』 その1

2008-08-06 22:50:50 | 読書感想文
今日は63回目の広島原爆の日である。戦争責任や歴史認識が問題になると、例によって教科書は歴史を忠実に教えていないのではないか、史実を歪曲しているのではないかといった議論がにぎやかになる。しかし、このようなイデオロギー的な論争そのものが、後世における高みの見物たるを免れない。二度と戦争のない平和な世の中が続くように祈りたいという端的な心情は、政治的な主義主張とは異なる。

歴史とは、人間の人生の集まりである。誰もがその時代にたった一度きりの人生を差し出している。歴史的な事実というものをとことんまで突き詰めて考えれば、最後にはどの時代にも共通の真実に突き当たらざるを得ない。それは、宇宙が在る、世界が在る、人が生まれて生きて死ぬなどといった単純な真実である。これらの真実は歪曲しようがない。そして、ここまで突き詰めてみれば、政治的に熱くならなくても自然とわかる事実がある。すなわち、人類にとって戦争ほど愚かなことはない。


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★ 昭和20年2月10日(土)の日記

 先日の都心爆撃に於て死者700、負傷者1万5000なりと。中天に吹っ飛びし者あり、木っ端微塵となりし者あり、石に打たれて惨死せし者あり、顔半分打砕かれ、腸ひっちぎれし者あり、白けて石地蔵のごとく転がりて死せし者あり等種々噂しきりなり。語る者も聞く者も「生きて」あれば、ともに笑みつつ語り、また聞く。余もまた然り。
 ただこの700或いは1万5000の人、当日敵爆弾により死傷するとは、生まれてよりその日まで、夢にも考えたることあらざらん。余ならばその地にゆかずとはいい得ず、いかなる用事でいかなる日に、ゆきたる場所に空爆あるやは神のみが知ればなり。たとえ一尺の地を限りてそこにひそむも、敵弾はその一尺に落つるや計りがたし。いかに頑健なるも敏捷なるも、天才なるも馬鹿なるも、頭上至近に敵弾炸裂すれば死を免れざればなり。
 吾が死する? 永劫のあの世へ? この思い、人は生涯にだれしも抱き、或るとき信ぜず、或るとき慄然たり。しかも要するに必ず永劫のあの世へゆき、後人は冷然また欣然と彼ら自身の生を生きるのみ。その運命今日2月10日、吾を見舞うや―― かく問いてこれに明確なる返答を与え得べきもの一人もなかるべし。余は実に脳意識薄るるばかりの感情を経験せり。恐怖とは少し違った感情なりき。


★ 昭和20年3月10日(土)の日記 (東京大空襲)

 彼らの言葉によると、防空頭巾をかぶっていた人達は、たいてい死んだという。火の粉が頭巾に焼けついて、たちまち頭が燃え上がったという。しかし、昨夜は焼夷弾ばかりであったからそうであったかも知れないが、もし爆弾も混っていたら、その爆風の危険は防空頭巾をかぶっていなければ防げないだろう。
 防空壕にひそんでいるのも危険だという。逃げ遅れて蒸焼きになった者が無数にあるという。早く広場を求めて逃げることだという。しかし、爆弾なら、地上に立っていれば吹き飛ばされてしまうだろう。低空で銃撃でもされれば、広場では盆の上の昆虫の運命を免れまい。彼らもそのことはいった。そして――
 「―― つまり、何でも、運ですなあ。・・・」と一人がいった。みな肯いて、何ともいえないさびしい微笑を浮かべた。
 運、この漠然とした言葉が、今ほど民衆にとって深い、凄い、恐ろしい、虚無的な―― そして変な明るさをさえ持って浮かび上った時代はないであろう。東京に住む人間たちの生死は、ただ「運」という柱をめぐって動いているのだ。


★ 昭和20年5月25日(金)の日記

 まだ津雲邸は燃えているのに、厚生省の前では数台の消防自動車がホースを長々とのばして、後始末にかかっていた。3人、手錠をはめられた男が、警官につれられて歩いていた。火事場泥棒らしい。
 計画的群盗団が横行しているという噂もある。実際あの修羅の火の町の中では、強盗でも強姦でも、やる気になれば何でもやれるかも知れない。最高の美と最低の悪が、火炎の中で乱舞する。恐るべき時代である。

悲しみの重要性

2008-08-05 22:16:50 | 国家・政治・刑罰
人間は気分が落ち込んでいるときには、なぜか明るいBGMなど聞きたくない。むしろ、悲しいときには悲しい曲を聞きたくなる。言葉も同じことである。落ち込んでいる人がいれば、周囲の人は慰めの言葉をかけて元気づけようとする。これは人間社会においてよく見られる光景であり、純粋な善意に基づくものである。しかしながら、なぜかその励ましが逆効果になってしまうことも多い。これはお互い様である。現代社会は特に孤独や孤立にマイナスの評価を置き、落ち込んでいる人の苦悩を解消しようとする。ところが、人はなぜか集団の中において孤独を感じ、逆に一人でいるときには孤独を感じないことがある。無理な元気付けは、かえって孤独感を強くするという逆効果である。無理に気の利いた言葉を探さなくても、一緒にいて同じ空気を感じることができるならば、その沈黙は言葉以上に何事かを語る。

人間は誰しも元来孤独である。誰しも一人で生まれて、一人で死ぬしかない。一卵性双生児ですら同様である。自分は他人の人生を生きることができず、他人は自分の人生を生きることができないという単純な事実である。ただし、この事実がすべての「自分」にあてはまるという点において、すべての人間は孤独ではない。ゆえに、世間一般で言われるような孤独を必要以上に恐れたり、その孤独を解消しようとしてかえって孤独になったりすることは遠回りである。他人の意見に振り回されて悩みを大きくするくらいであれば、宇宙の中にたった1人で立って考えたほうが話が早い。避けては通れないところを真剣に考えて手探りで進むことは、様々な他人の意見の矛盾に左右されて悩むこととは異なる。明るさは浅さや軽薄さにも通じ、暗さは深さや鋭さにも通じる。

近年は心理学や精神医学の発展がめざましく、人間の落ち込みや悩みには病名が付けられ、それは治療される対象とされてきた。そして、現代人の主流は、「心の病」というレッテルを貼られるとむしろ安心し、薬やカウンセリングによって医師に治してもらおうとする。ここでは、人間が悲しみに暮れることはマイナスの状態であり、少しでも早く抜け出さなければならないものであることが大前提とされている。このような治療のモデルは一長一短である。人間は生きている限り、自分の内面から逃れることはできない。どう頑張っても、自分の人生は自分で生きるしかなく、精神科医やカウンセラーに自分の人生を生きてもらうわけにはいかないからである。ここで「心の病」のガイドラインに乗ってしまうことは、人間と人間の会話ではなく、どうしても上下関係になってしまう。そして、患者はカウンセラーに病気を治してもらうというモデルにはまり、無意識のうちに典型的な患者像を演じるというデメリットが生じる。

人類の長い歴史において、先哲は「知は力なり」「人間は考える葦である」などの名言を残した。これは、先哲であるがゆえに名言を残したのではなく、このような名言を残したがゆえにその人間が先哲として名を残したと言ったほうが正確である。従って、その先哲は死んでも、非人称の考えが滅びることはない。苦しさや悲しさ、切なさや虚しさと向き合うことは、考える葦である人間にとって不可欠な過程である。これらの感情は、喜びや楽しみ以上に、人間にとって大切なものである。悲しいときには悲しみ、怒りたいときには怒り、恨みたいときには恨む。人間が人間として生きるとは、そのようなことである。現代社会のキーワードは「癒し」であり、今や負の感情は癒されなければならないものと相場が決まっている。しかしながら、自問自答によって自らの内面や人生観を深める機会まで奪われてしまえば、かえって答えは遠ざかる。

吉村英夫著 『ヘタな人生論より「寅さん」のひと言』

2008-08-03 21:18:50 | 読書感想文
● p.217 (第39作「寅次郎物語」より)

満男 「人間は何のために生きてんのかな」

寅次郎 「難しいこと聞くな、お前は。何と言うかな、ほら、あー生まれてきてよかったなって思うことが何べんかあるだろう、そのために人間生きてんじゃねぇのか」


● p.211 (第18作「寅次郎純情詩集」より)

綾 「人間はなぜ死ぬのでしょうねぇ」

寅次郎 「まぁこう人間がいつまでも生きていると、丘の上がね、人間ばっかりになっちゃう。で、うじゃうじゃ、うじゃうじゃ。面積が決まっているから。で、みんなでもって、こうやって満員になって押しくらマンジュウしているうちに、ほら足の置く場所がなくなっちゃって、で隅っこにいるやつが、お前どけよと言われて、あーなんて海の中へ、バシャンと落っこって、アップアップして、助けてくれーなんてね。結局、そういうことになるんじゃないんですか、昔から」


● p.23 (第3作「フーテンの寅」より)

寅次郎 「インテリというのは自分で考えすぎますからね、そのうち俺は何を考えていただろうって、分かんなくなってくるんです。つまり、このテレビの裏っ方でいいますと、配線がガチャガチャにこみ入っているわけなんですよね、ええ、その点私なんかが線が一本だけですから、まァ、いってみりゃ空っポといいましょうか、叩けばコーンと澄んだ音がしますよ、殴ってみましょうか」


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平成8年8月4日は渥美清さんの命日であり、今年は13回忌にあたる。渥美清さんの演じる寅さんは、全く哲学の知識など持っておらず、その生き方は哲学的でも何でもない。しかし、哲学的な問いに対しては、ヘタな哲学者よりも当意即妙に答えてしまう。研究者が知識を重ねた言葉は小難しくてよくわからないのに、なぜかフーテンの寅さんがハッとするような真実の入口に触れてしまう。

ヘタな人生論というものは、教える人と教えられる人の役割が最初から決まっている。そして、正しく理解しているのか否か、誤解しているのかどうかといった方向に話が行ってしまう。これでは先に進まない。思索というものは、文字通りプロセスのことであり、そのプロセス自体を他者に教えることはできない。この寅さんの投げやりな台詞についても、人それぞれに様々な感想が生じる。そのプロセス自体が哲学の答えである。