犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

山田風太郎著 『戦中派不戦日記』 その1

2008-08-06 22:50:50 | 読書感想文
今日は63回目の広島原爆の日である。戦争責任や歴史認識が問題になると、例によって教科書は歴史を忠実に教えていないのではないか、史実を歪曲しているのではないかといった議論がにぎやかになる。しかし、このようなイデオロギー的な論争そのものが、後世における高みの見物たるを免れない。二度と戦争のない平和な世の中が続くように祈りたいという端的な心情は、政治的な主義主張とは異なる。

歴史とは、人間の人生の集まりである。誰もがその時代にたった一度きりの人生を差し出している。歴史的な事実というものをとことんまで突き詰めて考えれば、最後にはどの時代にも共通の真実に突き当たらざるを得ない。それは、宇宙が在る、世界が在る、人が生まれて生きて死ぬなどといった単純な真実である。これらの真実は歪曲しようがない。そして、ここまで突き詰めてみれば、政治的に熱くならなくても自然とわかる事実がある。すなわち、人類にとって戦争ほど愚かなことはない。


***************************************************

★ 昭和20年2月10日(土)の日記

 先日の都心爆撃に於て死者700、負傷者1万5000なりと。中天に吹っ飛びし者あり、木っ端微塵となりし者あり、石に打たれて惨死せし者あり、顔半分打砕かれ、腸ひっちぎれし者あり、白けて石地蔵のごとく転がりて死せし者あり等種々噂しきりなり。語る者も聞く者も「生きて」あれば、ともに笑みつつ語り、また聞く。余もまた然り。
 ただこの700或いは1万5000の人、当日敵爆弾により死傷するとは、生まれてよりその日まで、夢にも考えたることあらざらん。余ならばその地にゆかずとはいい得ず、いかなる用事でいかなる日に、ゆきたる場所に空爆あるやは神のみが知ればなり。たとえ一尺の地を限りてそこにひそむも、敵弾はその一尺に落つるや計りがたし。いかに頑健なるも敏捷なるも、天才なるも馬鹿なるも、頭上至近に敵弾炸裂すれば死を免れざればなり。
 吾が死する? 永劫のあの世へ? この思い、人は生涯にだれしも抱き、或るとき信ぜず、或るとき慄然たり。しかも要するに必ず永劫のあの世へゆき、後人は冷然また欣然と彼ら自身の生を生きるのみ。その運命今日2月10日、吾を見舞うや―― かく問いてこれに明確なる返答を与え得べきもの一人もなかるべし。余は実に脳意識薄るるばかりの感情を経験せり。恐怖とは少し違った感情なりき。


★ 昭和20年3月10日(土)の日記 (東京大空襲)

 彼らの言葉によると、防空頭巾をかぶっていた人達は、たいてい死んだという。火の粉が頭巾に焼けついて、たちまち頭が燃え上がったという。しかし、昨夜は焼夷弾ばかりであったからそうであったかも知れないが、もし爆弾も混っていたら、その爆風の危険は防空頭巾をかぶっていなければ防げないだろう。
 防空壕にひそんでいるのも危険だという。逃げ遅れて蒸焼きになった者が無数にあるという。早く広場を求めて逃げることだという。しかし、爆弾なら、地上に立っていれば吹き飛ばされてしまうだろう。低空で銃撃でもされれば、広場では盆の上の昆虫の運命を免れまい。彼らもそのことはいった。そして――
 「―― つまり、何でも、運ですなあ。・・・」と一人がいった。みな肯いて、何ともいえないさびしい微笑を浮かべた。
 運、この漠然とした言葉が、今ほど民衆にとって深い、凄い、恐ろしい、虚無的な―― そして変な明るさをさえ持って浮かび上った時代はないであろう。東京に住む人間たちの生死は、ただ「運」という柱をめぐって動いているのだ。


★ 昭和20年5月25日(金)の日記

 まだ津雲邸は燃えているのに、厚生省の前では数台の消防自動車がホースを長々とのばして、後始末にかかっていた。3人、手錠をはめられた男が、警官につれられて歩いていた。火事場泥棒らしい。
 計画的群盗団が横行しているという噂もある。実際あの修羅の火の町の中では、強盗でも強姦でも、やる気になれば何でもやれるかも知れない。最高の美と最低の悪が、火炎の中で乱舞する。恐るべき時代である。