犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

“葬式仏教”の弊害

2008-08-10 00:19:46 | 時間・生死・人生
All about 「今からでも間に合う 失敗しない法要(初盆、新盆)の迎え方」より

人が亡くなってから初めて迎えるお盆のことを「新盆」又は「初盆」と呼びます。故人が仏になって初めて里帰りするということで、故人の近親者は盆ちょうちんを贈り(現在では住宅事情などでちょうちんを贈るより1万円から2万円の現金を贈る事が一般的になってきています)、初盆を迎える家では身内や親しい方を招いて僧侶にお経をあげてもらい盛大に供養します。

※読経謝礼(僧侶)の贈答様式
読経をして頂いたあと、精進料理でもてなしますが、僧侶が辞退される場合は「御膳料」を包みます。また、「お布施」は地方や宗派によって違いますので詳しい方にお聞きください。また、自宅に僧侶を招いた場合は「御車代」を包みます。

※金封
水引/黒白か黒白銀か黄白(5本か7本)・双銀の7本か10本
結び/結切りか鮑結び
表書き/「御佛前」「御仏前」か「御供物料」「御ちょうちん代」


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教義として定立された宗教は、人間がまさに「今」「ここ」で感じている生身の感覚を切り離し、図式化・対象化してきた。宗教とは本来、人間の生死を語るものである。そして、人間は死ぬまでは生きるしかなく、生きている間は絶対に死ぬことがない。その意味で、宗教にできることは、我々が日常に普通に感じ取っているありのままの感覚を、そのまま受け止めることだけである。しかしながら多くの宗教は、人間の生死という当たり前の事実に関して、不自然な手間を介在させてきた。それによって、人間が自らの生死について純粋に思索し、他者の死の意味を論理によって突き詰めるという当たり前の作業は、一部の専門家によって奪われてきた。多くの日本人は、僧侶にお経をあげてもらうことによって、自らの頭一つで生死の意味を思索する機会を放棄してきた。このような哲学的思考から離れた日本の仏教は、“葬式仏教”と呼ばれて揶揄されている。

自分よりも前にこの世に生まれており、順番に従ってあの世に行った人については、お盆に里帰りをするという説明も何となく腑に落ちるところがある。一度も会ったことがない先祖や祖父母であっても、お盆にはその霊を祀るのだと説明されれば、なぜか自然と受け入れられる。これに対して、自分よりも後にこの世に生まれており、順番に逆らってあの世に行った人については、どうにも腑に落ちないところがある。人間の生死に関する倫理的直観は、この辺りは非常に敏感である。すなわち、人間がまさに「今」「ここ」で感じている生身の感覚である。そうであるならば、この生身の感覚を「その通りだ」と認めるのが宗教の役割のはずである。ここで、専門家である僧侶が一般人の感覚を否定し、新盆の教義やしきたりのお説教をすることが、宗教の本来のあり方に合致するはずがない。これは“葬式仏教”の悪い側面である。本来、生死を考える立場にあるのは、一度きりの人生を生きて死ぬべき一人ひとりの人間である。

なぜ新盆の金封の水引は、黒白か黒白銀か黄白の5本か7本にするのか。結びは結切りか鮑結びにするのか。元々は深い理由があるはずのしきたりも、その由来すら問われないようになれば、単なる儀式と化する。そして、世間的に恥をかかないためのマナーとしてのみ追求されるならば、それは宗教の本来のあり方からは遠く離れてしまう。世間体やマナーといったものは、人間の生死を思索する行為とは頭の使い方が正反対である。ご仏前を1万円にするか2万円にするか、御膳料やお布施や御車代をいくらにするか、このような問題に頭を悩ませることは、人間の生死を考える哲学的思考にそぐわない。それどころか有害である。宗教とは本来、生きるための思考を切実に必要としている人間に対して、そのありのままの感覚を受け止めるものでなければならない。自らの檀家の葬儀や法事を営み、定期的に収入を得ることで手一杯の“葬式仏教”は、真摯に生死の意味を突き詰めて考える人間を苦しめようとする。そうであるならば、人間のほうが無駄に苦しむ必要はない。

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