犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

吉村英夫著 『ヘタな人生論より「寅さん」のひと言』

2008-08-03 21:18:50 | 読書感想文
● p.217 (第39作「寅次郎物語」より)

満男 「人間は何のために生きてんのかな」

寅次郎 「難しいこと聞くな、お前は。何と言うかな、ほら、あー生まれてきてよかったなって思うことが何べんかあるだろう、そのために人間生きてんじゃねぇのか」


● p.211 (第18作「寅次郎純情詩集」より)

綾 「人間はなぜ死ぬのでしょうねぇ」

寅次郎 「まぁこう人間がいつまでも生きていると、丘の上がね、人間ばっかりになっちゃう。で、うじゃうじゃ、うじゃうじゃ。面積が決まっているから。で、みんなでもって、こうやって満員になって押しくらマンジュウしているうちに、ほら足の置く場所がなくなっちゃって、で隅っこにいるやつが、お前どけよと言われて、あーなんて海の中へ、バシャンと落っこって、アップアップして、助けてくれーなんてね。結局、そういうことになるんじゃないんですか、昔から」


● p.23 (第3作「フーテンの寅」より)

寅次郎 「インテリというのは自分で考えすぎますからね、そのうち俺は何を考えていただろうって、分かんなくなってくるんです。つまり、このテレビの裏っ方でいいますと、配線がガチャガチャにこみ入っているわけなんですよね、ええ、その点私なんかが線が一本だけですから、まァ、いってみりゃ空っポといいましょうか、叩けばコーンと澄んだ音がしますよ、殴ってみましょうか」


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平成8年8月4日は渥美清さんの命日であり、今年は13回忌にあたる。渥美清さんの演じる寅さんは、全く哲学の知識など持っておらず、その生き方は哲学的でも何でもない。しかし、哲学的な問いに対しては、ヘタな哲学者よりも当意即妙に答えてしまう。研究者が知識を重ねた言葉は小難しくてよくわからないのに、なぜかフーテンの寅さんがハッとするような真実の入口に触れてしまう。

ヘタな人生論というものは、教える人と教えられる人の役割が最初から決まっている。そして、正しく理解しているのか否か、誤解しているのかどうかといった方向に話が行ってしまう。これでは先に進まない。思索というものは、文字通りプロセスのことであり、そのプロセス自体を他者に教えることはできない。この寅さんの投げやりな台詞についても、人それぞれに様々な感想が生じる。そのプロセス自体が哲学の答えである。

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2 コメント

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私もそう思います。 (ゆく)
2008-08-04 06:16:28
本当に知識を重ねた言葉は難しくて理解できないです。私の場合は最も難解なことはサッサと諦めます。解りそうな所は自分に当てはめて考えるしかない感じです。
でも本当に何かを求めている時は、言っている事が正しいか的を外れているかなんてどうでもよくなります。そもそも経験によりひとつの言葉をとっても意味合いが違っていて、それは言葉では表現しにくい部分なのでので理解には微妙なズレが生じるのでしょうね。逆に言葉ははっきりと型にはまらないあやふやなものだからこそ、それぞれの人間の中で生きてくるのかもしれないなぁと思ったりもします。知識なく手上手く理解出来ない私の都合のいい解釈です。(笑)
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そうですね。 (某Y.ike)
2008-08-04 23:57:17
そうですね。言葉はなぜか語るものを語らず、語らないものを語るようです。それでも、人間が本当に苦しいときに求めるのは、やはり本当の言葉なのでしょう。それは、瞬間的に心に響いたり響かなかったりするものであって、説得したり論破したりする種類の言葉ではないようです。
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