犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

無償の愛

2008-08-27 22:59:31 | 国家・政治・刑罰
刑事裁判の経過に納得ができない人が、それと並行して民事裁判を起こす。現在の日本では、このような光景はごく一般的である。その目的は、ほとんどの場合「加害者に誠意が見られない」「刑事裁判では真相が究明されていない」「本当のことが知りたい」「加害者には正直に真実を話してほしい」といったものである。もちろん現在の法治国家においては、仇討ちや報復の権利は訴訟物として認められない。従って、やむを得ず金銭による損害賠償請求権を訴訟物とすることになる。命はお金で買えないことを示したくても、現在の法制度の下では、そのこと自体を金銭賠償請求権の中で述べざるを得ないという矛盾である。これは被害者の力不足ではなく、法制度の側の限界である。

被害者としては、お金をもらっても、実際には何も得るものはない。あくまでも究極的な希望は、死者を元通りに戻してもらうことである。事件の前の状態にして返してほしい。本当はお金など欲しくない。まさに「無償の愛」である。お金を訴訟物にするのは、あくまでも現在の法律がそうなっているからであって、苦肉の策である。ここのところだけは絶対に譲れない。もしも事件の前の普通の幸せな生活に戻してくれるならば、被害者側はいくらでもお金を払う。これが民事裁判の隠れた訴訟物である。ここで、被害者にとって最も苦しいのが、「やっぱり金が目的なのか」「金が儲かれば満足するのか」との中傷を受けることである。どんなにお金など欲しくないのだと言っても、訴訟物がまぎれもない金銭債権であるため、これはどうしようもない。

それでは、お金が目的ではないことを理解してもらうためには、どうすればいいのか。これは、民事的な金銭賠償の多寡にかかわらず、刑事裁判で厳罰を求めることをおいて他にない。お金など要らないのであれば、欲しいものは真実であり、筋道であり、正義であり、論理である。そうだとするならば、これを実現するのは、やはり国家の手による刑事罰である。「加害者に誠意が見られない」「刑事裁判では真相が究明されていない」として民事裁判を起こしても、それは刑事裁判の理を曲げるものではない。両者はあくまでも両立する。どんなに加害者が賠償を尽くしたとしても、それで満足して厳罰を求めることをやめてしまえば、やはり「金が目的だったのか」「命をお金で買うのか」との誤解を受けてしまう。そうならないためには、あくまでも厳罰を求め続けるしかない。

犯罪被害者を見落としてきた法曹界は、ようやく被害者の存在を思い出してきた。しかし、それは従来の被告人中心のパラダイムの中での保護や救済であり、厳罰化を志向するものではなかった。そして、厳罰感情を抑えるための金銭賠償、国家による金銭補償をその主眼に置いてきた。すなわち、被害者は経済的に苦しんでおり、金銭を補償すれば立ち直りに役立つだろう、精神的な立ち直りについても心のケアをすれば厳罰感情は収まるだろうとの制度設計である。ところが、これに乗ってしまえば、被害者は最も理不尽な中傷に直面してしまう。「国からお金がもらえれば満足なのか」「やっぱりお金が目的なのか」「殺されて儲かって良かったな」。このようなを誤解を招かないためには、被害者は国からいくらお金を補償されようと、心のケアの援助をされようと、それとは全く別問題として、刑事裁判ではあくまでも厳罰を望まざるを得ない。これが、命はお金で買えないということである。