犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

悲しみの重要性

2008-08-05 22:16:50 | 国家・政治・刑罰
人間は気分が落ち込んでいるときには、なぜか明るいBGMなど聞きたくない。むしろ、悲しいときには悲しい曲を聞きたくなる。言葉も同じことである。落ち込んでいる人がいれば、周囲の人は慰めの言葉をかけて元気づけようとする。これは人間社会においてよく見られる光景であり、純粋な善意に基づくものである。しかしながら、なぜかその励ましが逆効果になってしまうことも多い。これはお互い様である。現代社会は特に孤独や孤立にマイナスの評価を置き、落ち込んでいる人の苦悩を解消しようとする。ところが、人はなぜか集団の中において孤独を感じ、逆に一人でいるときには孤独を感じないことがある。無理な元気付けは、かえって孤独感を強くするという逆効果である。無理に気の利いた言葉を探さなくても、一緒にいて同じ空気を感じることができるならば、その沈黙は言葉以上に何事かを語る。

人間は誰しも元来孤独である。誰しも一人で生まれて、一人で死ぬしかない。一卵性双生児ですら同様である。自分は他人の人生を生きることができず、他人は自分の人生を生きることができないという単純な事実である。ただし、この事実がすべての「自分」にあてはまるという点において、すべての人間は孤独ではない。ゆえに、世間一般で言われるような孤独を必要以上に恐れたり、その孤独を解消しようとしてかえって孤独になったりすることは遠回りである。他人の意見に振り回されて悩みを大きくするくらいであれば、宇宙の中にたった1人で立って考えたほうが話が早い。避けては通れないところを真剣に考えて手探りで進むことは、様々な他人の意見の矛盾に左右されて悩むこととは異なる。明るさは浅さや軽薄さにも通じ、暗さは深さや鋭さにも通じる。

近年は心理学や精神医学の発展がめざましく、人間の落ち込みや悩みには病名が付けられ、それは治療される対象とされてきた。そして、現代人の主流は、「心の病」というレッテルを貼られるとむしろ安心し、薬やカウンセリングによって医師に治してもらおうとする。ここでは、人間が悲しみに暮れることはマイナスの状態であり、少しでも早く抜け出さなければならないものであることが大前提とされている。このような治療のモデルは一長一短である。人間は生きている限り、自分の内面から逃れることはできない。どう頑張っても、自分の人生は自分で生きるしかなく、精神科医やカウンセラーに自分の人生を生きてもらうわけにはいかないからである。ここで「心の病」のガイドラインに乗ってしまうことは、人間と人間の会話ではなく、どうしても上下関係になってしまう。そして、患者はカウンセラーに病気を治してもらうというモデルにはまり、無意識のうちに典型的な患者像を演じるというデメリットが生じる。

人類の長い歴史において、先哲は「知は力なり」「人間は考える葦である」などの名言を残した。これは、先哲であるがゆえに名言を残したのではなく、このような名言を残したがゆえにその人間が先哲として名を残したと言ったほうが正確である。従って、その先哲は死んでも、非人称の考えが滅びることはない。苦しさや悲しさ、切なさや虚しさと向き合うことは、考える葦である人間にとって不可欠な過程である。これらの感情は、喜びや楽しみ以上に、人間にとって大切なものである。悲しいときには悲しみ、怒りたいときには怒り、恨みたいときには恨む。人間が人間として生きるとは、そのようなことである。現代社会のキーワードは「癒し」であり、今や負の感情は癒されなければならないものと相場が決まっている。しかしながら、自問自答によって自らの内面や人生観を深める機会まで奪われてしまえば、かえって答えは遠ざかる。