犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

“葬式仏教”と仏教哲学

2008-08-17 21:17:24 | 時間・生死・人生
お盆は元々仏教の行事であったが、日本では盂蘭盆が薮入りに結びつき、国民的な風習として現代に伝えられてきた。一族が集まって先祖を供養し、亡くなった人を偲ぶことは、家族の結びつきが希薄である現代社会において大変に意義のある風習である。人間は、神仏の存在は簡単に否定できても、自分の祖先の存在はなかなか否定できない。今の自分があるのはご先祖様のお陰であると感謝する義務があるかはともかく、人はなぜか先祖の存在だけは否定できない。誰しもこの世に人間として存在する限り、父母は2人、祖父母は4人、曾祖父母は8人、確かにこの世に存在していたはずである。さらにその上が16人、その上が32人という形で、その中の誰一人欠けても、自分が自分としてこのような形で存在することはなかった。この恐るべき平凡な奇跡に気がつくか否かによって、お盆の光景も異なったものに見えてくる。

宗教といえば、何やら教義が難しそうであり、お金を払えば何かのご利益が得られるといったような倒錯した印象を抱かれやすい。すなわち、宗教的な専門用語は日常的描写を追放しがちであり、講話では人間が普段は考えていないことを改めて考えさせられる。しかしながら、人間の存在形式からすれば、日常言語による描写が宗教の教義に劣るということはない。「無」とは何か、「空」とは何か。あるいは「慈悲」とは何か、「救い」とは何か。このような言葉を自分の頭一つで突き詰めようとするならば、難解な専門用語を先に知ってしまうことは、むしろ大きな障害になる。このような概念は、専門家に聞いて教えてもらう種類のものではない。誰しも自分の人生を生きて死ぬしかなく、他人の人生を生きて死ぬことはできないからである。どんな高名な宗教家であっても、一人の人間である以上、この単純な事実から逃れることはできない。

日本の典型的な“葬式仏教”は、哲学的な思索を放棄し、社会常識としてのマナーの部分だけを拡大してきた。香典袋にはフルネームを書く、香典袋の金額のあとには「也」をつけない、会葬御礼にはのしをつけない、この辺りまでは宗派にかかわらず常識でわかる。しかしながら、焼香は1回か2回か、数珠は右手か左手か、線香は1本か2本か(それも1本を半分に折るのか2本使うのか)といったところは、今でも宗派によって様々である。様々であるということは、別にどちらでも構わないという話であり、マナーとしても「それぞれの宗派や地方の風習に従う」としか言えないようである。さらには、かつては香典袋にピン札を入れてはならないものとされてきたが、今では折り目をつければ構わない、さらには折り目も必要ないという方向に変わってきたらしい。ここでは、死者を悼む気持ちよりも、自分が恥をかきたくないという点が前面に出ている。また、マナーに関する本では、受付で香典袋を渡す際にお悔やみを言うか否か、その言葉はどのようなものにすべきか、といったことまでマニュアル化されている。マニュアルとは、自分の頭一つで根底から物事を考える手間を省くためのものである。

宗教は本来、何らかの不幸で最愛の人を突然喪った人の心を支えるものでなければならない。世の中のいかなる言葉も虚しい中で、宗教は人の心を支える言葉を語るはずであった。しかしながら、現在の“葬式仏教”は、このような言葉を語ってはいない。これに対して、仏教の中でも、非常に深い哲学的思索を展開するものがある。例えば禅仏教は、仏教とはいいながら、仏を信じることを徹底的に排除し、思索を極めようとする。神仏の信仰を拒否するにとどまらず、無神論を信仰することをも拒否する。「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ」とは、唐の禅僧の臨済(?-867)の言葉である。また、「前後ありといへども、前後際断せり」「一生百歳のうちの一日は、ひとたび失わん、再び得ることなからん」「生死のなかに仏あれば生死なし。生死のなかに仏なければ生死に惑わず」などの言葉を残したのは、曹洞宗の道元(1200-1253)である。最愛の人を突然喪った人の心を支える言葉は、誰かに教えてもらうものではなく、改めて学ぼうとするものでもない。直感的に入ってくるものは入ってくるし、入ってこないものは入ってこない。世の中は、なぜかそのようになっている。