犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

存在論の始まり

2008-08-02 23:56:53 | 時間・生死・人生
人間は誰しも、3歳くらいの物心がついたときに、何だか不思議な気分になる瞬間がある。何でこの女の人が自分の母親で、この男の人が自分の父親なのか。他の誰でもなく、よりによってこの人が自分の親なのか。これは、極めて哲学的な存在論の問いである。もちろん性教育は、生物学的にはこの問いに答えることができる。受精の瞬間、1個の卵子の周りに約1億個の精子が群がり、その内の1個が結合して云々かんぬんという説明である。しかし、哲学的な問題はさらにその先にある。もし、母親が父親と出会っておらず、一度も性交渉をしていなかったならば、この自分はいったいどうなっていたのか。もし母親が別の男性と結婚し、父親が別の女性と結婚していたなら、自分はどちらの家に生まれていたのか。それとも、全く別のところに生まれていたのか。はたまた、どこにも生まれていなかったのか。そうは言っても、現に生まれて生きている限りは、自分が生まれていないことは考えられない。

同じく、人間は3歳くらいの物心がついたときに、自分自身の存在と宇宙や地球の存在に驚く。誰にとっても、自分が生まれる前には、そんなものはどこにもなかったからである。「僕はどこから来たの?」という問いも、極めて哲学的な存在論の問いである。「何でお母さんはお母さんなの?」「何でお父さんはお父さんなの?」という問いも同じである。そして、それが大人にとっては性教育の問いに聞こえてしまうことも同じである。現に父親と母親の性交渉によって自分が生まれたことは事実である。しかし、両者はいくらでも結婚に至る前に別れる可能性があったし、お見合いならば失敗する可能性があった。むしろ、世の中の確率からすれば、その可能性のほうが大きかった。そうなっていた場合には、この自分はどうなっていたのか。ここでいう「自分」とは、肉体としての自分ではない。哲学においては「脱人格的自我」と呼ぶが、一般的には「霊」や「魂」などと呼んで、何とかしてその「肉体ではない自分」を捉えようと苦心している。

子供は存在の謎に驚く天才であるが、大人はそれを忘れる。そのこと自体は、社会生活を送る上でごく正常なことである。従って、親のほうは、なかなかこの謎を所有できない。現在では「できちゃった婚」を「さずかり婚」と言い換える動きもあるようであるが、特に深い意味はなさそうである。しかしながら、子供の側の「僕はどこから来たの?」「何でお母さんはお母さんなの?」という哲学的な存在論の問いを経由してみると、親のほうはさらなる大きな謎に直面させられる。一人の人生を、他の人間が新たに存在させてしまうとは、これは冷静に考えればとんでもないことである。一度生まれてしまった人生は、もはや生まれなかったことにはできない。「何でお母さんはお母さんなの?」「何でお父さんはお父さんなの?」と聞かれても、両親には何とも答えられない。これは単なる偶然である。他の誰でもなく、子供がその男性と女性の間の子供として生まれたことは、単なる偶然の出会いである。しかし、それ以外の偶然はあり得なかったのだから、この偶然は必然である。誰もがこの謎を解けないまま、今日も誰もが自分自身の人生を生きている。

存在の消滅である死を正確に考えようとするならば、まずはこの存在自体の謎を手放さないことが絶対条件である。「自分は死んだらどこへ行くのか?」という問いは、「僕はどこから来たの?」という問いの裏返しである。人間は誰しも、自分の力で生まれてきたわけではない。そうであれば、自分の力によって死ぬこともできない。ゆえに、しっかりと死を見つめる者は、絶対に自殺しない。死によって生の重要性を知り、死への畏れを知ったならば、それを自ら求めることは論理的にできないからである。存在の側から見てみれば、存在の消滅である死は別れである。人間は正当にも、「死」と「死別」の概念を区別する。一度でも出会ったことがなければ、別れることはできない。従って、単なる偶然の出会いを経た者の間でのみ、その死は「死別」となる。これはお互い様である。そして、この偶然は必然である点もお互い様である。実際に存在してしまったものについては、それ以外の存在の仕方はあり得なかった。誰もが自分自身の力でこの地球に生まれてきたわけではなく、永遠に生き続けることもできない。ゆえに、出会いは縁である。もしくは一期一会。