● 原作 横山秀夫著 『クライマーズ・ハイ』(文春文庫) p.102~
【御巣鷹山にて=佐山記者】
若い自衛官は仁王立ちしていた。
両手でしっかりと、小さな女の子を抱きかかえていた。赤い、トンボの髪飾り。青い、水玉のワンピース。小麦色の、細い右手が、だらりと垂れ下がっていた。
自衛官は天を仰いだ。
空はあんなに青いというのに。
雲はぽっかり浮かんでいるというのに。
鳥はさえずり、風は悠々と尾根を渡っていくというのに。
自衛官は地獄に目を落とした。
そのどこかにあるはずの、女の子の左手を探してあげねばならなかった――。
● 乗客の1人、河口博次さんの遺書
マリコ 津慶 知代子 どうか仲良くがんばってママを助けて下さい
パパは本当に残念だ きっとたすかるまい
原因はわからない いま五分たった 降下しだした どこへどうなるのか
津慶 しっかりたのんだぞ
もう飛行機には乗りたくない どうか神様たすけて下さい
きのうみんなと食事したのは 最后とは
何か機内で 爆発したような形で 煙が出て
ママ こんなことになるとは 残念だ
さようなら 子供達の事よろしくたのむ
今六時半だ 飛行機はまわりながら 急速に降下中だ
本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している
● 原作 p.406~
「人の命って、大きい命と小さい命があるんですね」
悠木は息を呑んだ。
頭は空転していた。それでも彩子の言葉は痛みを伴って胸に染み渡った。
彩子は続けた。
「重い命と、軽い命。大切な命と、そうでない命……。日航機の事故で亡くなった方たち、マスコミの人たちの間では、すごく大切な命だったんですよね」「父は全然悪くなかったんです。横断歩道を渡っていて、なのに、飛ばしてきたオートバイに轢かれてしまって」「新聞だって忘れちゃったんですよね。父、偉くもなんともなかったし、世の中からいなくなってもどうってことないし。小さくて、軽くて、大切じゃない命だったから……」
二十歳――悠木の半分しか生きていない娘がメディアの本質を見抜いていた。
命の重さ。
どの命も等価だと口先で言いつつ、メディアが人を選別し、等級化し、命の重い軽いを決めつけ、その価値観を世の中に押しつけてきた。
***************************************************
今日で日航機事故から23年になる。その間、情報化社会は比較にならないほど進化してきた。マスコミへの批判も多いが、人間社会が言語によって形成されることを忘れれば、その批判はまず的を外す。仮にマスコミが何も報道しなければ、憶測や口コミ、流言飛語が飛び交い、事実には面白いように尾ひれが付き、風評被害やパニックが続出することになる。すなわち、一方的にマスコミを責めて済む話でもない。「マスコミは世論を悪いほうに誘導しているのではないか」との主張は、「マスコミは世論を良い方向に盛り上げるべきである」との主張と対になっている。
横山秀夫の原作は非常に心理描写が細かく、しかも行間に多くの余韻を漂わせている。映像はその迫力をもって、文字だけでは伝え切れない多くのことを伝える。しかしながら、映像でも人間の内心は写せない。小説が映像化された場合、それが成功しているのか否か、そのたびに様々な批評がなされる。堤真一と堺雅人の鬼気迫る表情、台詞のない沈黙の時間は、原作の行間に込められた人間の内心を示す。しかし、その劇中の人物を「悠木和雄」と「佐山達哉」として見るのではなく、「堤真一が演じる悠木和雄」と「堺雅人が演じる佐山達哉」として見てしまえば、直覚的な批評はあっという間に逃げてゆく。無私であるがゆえに対象と同一化し、それによって対象が秘密を明かす。映画を批評することは非常に難しい。
【御巣鷹山にて=佐山記者】
若い自衛官は仁王立ちしていた。
両手でしっかりと、小さな女の子を抱きかかえていた。赤い、トンボの髪飾り。青い、水玉のワンピース。小麦色の、細い右手が、だらりと垂れ下がっていた。
自衛官は天を仰いだ。
空はあんなに青いというのに。
雲はぽっかり浮かんでいるというのに。
鳥はさえずり、風は悠々と尾根を渡っていくというのに。
自衛官は地獄に目を落とした。
そのどこかにあるはずの、女の子の左手を探してあげねばならなかった――。
● 乗客の1人、河口博次さんの遺書
マリコ 津慶 知代子 どうか仲良くがんばってママを助けて下さい
パパは本当に残念だ きっとたすかるまい
原因はわからない いま五分たった 降下しだした どこへどうなるのか
津慶 しっかりたのんだぞ
もう飛行機には乗りたくない どうか神様たすけて下さい
きのうみんなと食事したのは 最后とは
何か機内で 爆発したような形で 煙が出て
ママ こんなことになるとは 残念だ
さようなら 子供達の事よろしくたのむ
今六時半だ 飛行機はまわりながら 急速に降下中だ
本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している
● 原作 p.406~
「人の命って、大きい命と小さい命があるんですね」
悠木は息を呑んだ。
頭は空転していた。それでも彩子の言葉は痛みを伴って胸に染み渡った。
彩子は続けた。
「重い命と、軽い命。大切な命と、そうでない命……。日航機の事故で亡くなった方たち、マスコミの人たちの間では、すごく大切な命だったんですよね」「父は全然悪くなかったんです。横断歩道を渡っていて、なのに、飛ばしてきたオートバイに轢かれてしまって」「新聞だって忘れちゃったんですよね。父、偉くもなんともなかったし、世の中からいなくなってもどうってことないし。小さくて、軽くて、大切じゃない命だったから……」
二十歳――悠木の半分しか生きていない娘がメディアの本質を見抜いていた。
命の重さ。
どの命も等価だと口先で言いつつ、メディアが人を選別し、等級化し、命の重い軽いを決めつけ、その価値観を世の中に押しつけてきた。
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今日で日航機事故から23年になる。その間、情報化社会は比較にならないほど進化してきた。マスコミへの批判も多いが、人間社会が言語によって形成されることを忘れれば、その批判はまず的を外す。仮にマスコミが何も報道しなければ、憶測や口コミ、流言飛語が飛び交い、事実には面白いように尾ひれが付き、風評被害やパニックが続出することになる。すなわち、一方的にマスコミを責めて済む話でもない。「マスコミは世論を悪いほうに誘導しているのではないか」との主張は、「マスコミは世論を良い方向に盛り上げるべきである」との主張と対になっている。
横山秀夫の原作は非常に心理描写が細かく、しかも行間に多くの余韻を漂わせている。映像はその迫力をもって、文字だけでは伝え切れない多くのことを伝える。しかしながら、映像でも人間の内心は写せない。小説が映像化された場合、それが成功しているのか否か、そのたびに様々な批評がなされる。堤真一と堺雅人の鬼気迫る表情、台詞のない沈黙の時間は、原作の行間に込められた人間の内心を示す。しかし、その劇中の人物を「悠木和雄」と「佐山達哉」として見るのではなく、「堤真一が演じる悠木和雄」と「堺雅人が演じる佐山達哉」として見てしまえば、直覚的な批評はあっという間に逃げてゆく。無私であるがゆえに対象と同一化し、それによって対象が秘密を明かす。映画を批評することは非常に難しい。