犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

山田風太郎著 『戦中派不戦日記』 その2

2008-08-09 21:07:09 | 読書感想文
★ 昭和20年8月13日(月) の日記

 あぶら胡麻をまいたように蝿のとまっている黒い四角なテーブルに、2人の学生が黙々とかゆをすすっている。かゆは、馬鈴薯と大豆が3割、米粒が2割、あと5割は湯という「箸にも棒にもかからぬ」しろものである。
「おい、原子爆弾は凄えなあ」
と瓢箪が新聞から頭もあげずに呟く。
「これあ、上陸を待たなくっても、これだけで日本は参るぜ」
「おれはそうは思わんな」
 赤い裸電球は暑くるしく、わびしい。油虫が床を無数に這い回っている。まだ皺に泥をくっつけた馬鈴薯が、鈍くまるく光ってザルに積まれている。その陰で、コツコツという淋しい音が、夏の暗い夜を刻んでゆく。


★ 昭和20年8月16日(木) の日記

 日本が負けた。嘘だ!
 いや、嘘ではない。・・・台湾、朝鮮、満州、樺太はもう日本のものではない。日清戦争、日露戦争、満州事変、支那事変、これらの戦役に流されたわが幾十万の将兵の鮮血はすべて空しいものであったのか。旅順包囲軍、日本海海戦、いや維新の志士たちはなんのために生まれたのか?
過去はすべて空しい。眼が涸れはてて、涙も出なかった。


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広島と長崎に原子爆弾が投下された数日後、日本国の庶民の食卓の上にいるのは無数の蝿である。そして、足元を無数に這い回っている油虫とは、おそらく今でいうゴキブリである。蝿やゴキブリの描写、このようなディテールの力は非常に大きい。21世紀の清潔な時代に繰り広げられる抽象論から、一気にドロドロの時代にリアルタイムに引き戻されるからである。確かに原爆のショックに比べれば、目の前で無数の蝿が飛び回ろうと無数のゴキブリが走り回ろうと大したことではない。

戦争責任や歴史認識について論じざるを得ないこと、これは人間の業のようなものである。過去の風化に対して言いようのない焦りを感じることも同様である。しかしながら、現在の価値観を基準にして過去を結果論で見渡すイデオロギーは、人間の時間性に対する考察が薄い。昭和20年の戦乱の最中に生きていた人に対して、平成20年の視点に立てと要求することは、土台無理な話だからである。これは、平成20年に生きる我々が、蝿が飛び回りゴキブリが走り回る部屋で生活しろと言われても無理であることと同様である。ちなみに私は1匹でもダメである。

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