犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

星野博美著 『愚か者、中国をゆく』

2008-08-07 23:21:14 | 読書感想文
★p.4~
わくわくしながら地図を眺めているうち、だんだん落ち込んで途方に暮れる。どのページにも、丸をつけた町以外に何百という町があり、そこに何千、何万という人が暮らしているのに、それらのほとんどに私は行ったことがないし、人々に会ったこともない。丸で囲まれた1つ1つの町の風景が、そして故郷の話をしてくれた、もう二度と会うことはないであろう人たちの顔が、映像や匂いや、また時には喜びや悲しみといった感情を伴って甦ってくる。そのほんの一部を思い返すだけでも暇つぶしできるくらいなのだから、仮に何百、何千という町を訪れでもしたら、思い出すだけでも一生を費やしてしまう。

★p.209~
たとえばある街で、何ら発見や感動ができないとする。しばらく滞在して何かを発見できればもうけものだが、居続けても何もなければ、それはその街がよほどおもしろみに欠けるか、それとも自分に感受性が欠けているか、原因はそのどちらかでしかない。そして実際、世界には「おもしろくない街」などというものは存在しない。どんな街であれ、旅人に十分な感性があれば、おもしろがることはいくらでもできる。もし「おもしろくない。ここには何もない」という感想を持ったとしたら、それは99パーセント、旅人の感性の責任なのだ。

★p.329~
現在中国に流れる時間のスピードをさらに加速させているものの正体は、飢餓感と危機感だと私は思っている。あまりに平等な社会では、ほとんどのものは手に入らない。そういう状況では、人は特権を渇望するようになる。その特権に対する飢餓感が、長い時間をかけて体内で肥大化した状態で、中国の人々は資本主義の波に飲みこまれてしまったのである。その飢餓感を満たそうと人々が金に飛びついたとしても、その気持ちを私は簡単に否定する気にはなれない。


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ノンフィクションとは、史実や記録に基づいた創作である。そこでは、全くのフィクションとは異なり、現場における綿密な調査や取材が必要となる。しかし、優れたノンフィクションには、フィクション以上に作者の独自色が出ている。それは、対象を見つめつつ自分を見つめていることによる。もちろん、その場合の自分は相対化されている。そして、そのように対象を見つめている自分を、冷めた目でもう一人の自分が見つめている。星野氏にとっては、親日も反日もなく、親中も反中もない。また、わざわざ日中友好などと唱える必要もない。

「チベットのデモに対して武力制圧を図った中国で、平和の祭典を開催させてはならない」。「北京五輪は中止すべきだ。日本は北京五輪をボイコットすべきだ」。イデオロギーは一瞬にして熱く燃え上がり、長野での聖火リレーでも混乱が起きた。しかし、北京五輪の開会式に向けてさらに燃え上がるはずであったイデオロギーは、四川大地震で冷水を浴びせられた。「日本の医療チームが被災地での活動を認められなかったのは、四川省に多く住むチベット人の訴えを恐れたのではないか」。「チベット問題に四川省地震が続いて、五輪どころではないのではないか」。やはり社会に文句を言っても始まらない。北京五輪の開会式である。

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