犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

福島県大熊町・県立大野病院事件

2008-08-20 19:41:38 | 言語・論理・構造
帝王切開手術で29歳の女性を失血死させたとして、業務上過失致死罪などに問われた加藤克彦医師に対し、福島地裁は無罪の判決を下した。産婦人科医の不足を加速させたとして、医療界が注目していた「県立大野病院事件」の裁判である。死亡した女性は出産後、対面した長女の手をつかんで「ちっちゃい手だね」と声をかけたという。その後、容体が急変して輸血などの措置が講じられたが、彼女は出産の約4時間半後に死亡した。無罪判決を受けて、国立成育医療センターの久保隆彦・産科医長は、「有罪になれば、産科医療の崩壊に拍車をかけるところだった。今回の判決は極めて妥当な判断だ。これ以上の産科医減少と産科医療の崩壊を招かないために、検察は控訴すべきではない」と語った。これに対して、被害女性の父親である渡辺好男さんは、医学用語や帝王切開手術の知識をゼロから医学書やインターネットで調べてファイルにまとめ、15回の公判すべてを傍聴してきた。それでも、判決前には「公判でも結局何が真実かはわからないままだ」と話し、専門的議論の前に遺族が置き去りにされたとの印象を強くしていた。そして、無罪の判決の朗読が始まって5分ほど経った後、突然涙をこぼし始め、ハンカチを取り出しては何度も涙をぬぐった。

何が起きたのかを知りたい。とにかく真実を知りたい。医学の素人が何の知識もないところで、多額の費用を投じて民事裁判を起こしたり、刑事裁判で検事に協力するのは、この一念に尽きる。別に医師を刑務所に入れることによって死者の無念を晴らそうというわけでもなく、事故を教訓にして社会を変革しようというわけでもない。最大の望みはすべてを元に戻してもらうことであるが、そんなことは言われなくても無理だとわかっている。だから、とにかく真実を知りたい。この真実とは、科学主義における過去の客観的真実の意である。そして、法治国家においては、この真実を明らかにする場は裁判所をおいて他にない。ところが、この種の客観的議論は無限に細かくすることができる。そして、医師の側は自らの過失を否定するために、医療の専門家ではない裁判官にもわからないような難しい議論を展開して、とにかく専門的な議論に持ち込もうとする。人間は、自分の理解を超える難しい議論を展開している者に対しては、降参して従うしかないからである。裁判所の嘱託による医師の鑑定意見においても、医師が同業者の利益を損なうことは書けないのが通例である。かくして現代の医療裁判は、原告の「真実を知りたい」という気持ちが実現されることが非常に難しくなっている。真実を追えば追うほど、重箱の隅に入ってゆき、専門用語のカムフラージュによって鳥瞰的な視点が失われるというもどかしい構造である。

どんな医学的な専門用語も、最後は日常用語によって支えられている。そして、裁判はあくまでも医学的な真実を明らかにする場ではなく、法律的な真実を明らかにする場である。法律的な過失論においては、注意義務は予見可能性と結果予見義務、回避可能性と結果回避義務に分けられているが、これは法律用語を使うまでもない。「すべきことしなかった」か、「してはならないことをした」ならば、法的な過失があるというだけの話である。「もし何かをしていればその結果は起きなかった」か、「何かをしていなければその結果は起きなかった」ならば過失が認められるということである。これはもちろん、法律的な部分的言語ゲームである。現実の世界では、事実は1つしかない。すなわち「タラ・レバ」はなく、過去の事実は変えることができない。それゆえに、実際には起きなかったこと、起こるべきであったことを、言語の力によって仮構する。これが法律的な部分的言語ゲームである。そして、「何かをしていなければその結果は起きなかった」というときの、その「何か」は、無限に想定することができる。それゆえに、これは実際にその場で行動していた本人に委ねられる。言語とは、ないことを語るものだからである。従って、医師が自ら「あれもしておくべきだった」「これもしておくべきだった」と無限の想定を語るならば、法的な過失があったということになり、医師は有罪となりやすい。これに対して、加藤医師のように「できる範囲のことを精一杯やった」と主張し続ければ、法的な過失はなかったということになり、医師は無罪となりやすい。

この判決においては、医療界を挙げて加藤医師の支援が行われたようである。そして、福島地裁の前では、無罪判決を受けて支援者の医師らが安堵の表情を見せた。人の命を預かる医師らが、29歳で人生を終えた女性の不在の周囲で喜びの声を上げる、このパラドックスは抜きがたいものがある。もちろん、通常の医療行為で医師が逮捕されれば現場が萎縮すること、全国で産科医の不足や過酷な労働状況が指摘されることは事実である。そして、医師が大挙して押し寄せて警察や検察を批判し、無罪判決に対して喜びを表明することは当然である。しかしながら、すべての医療行為が人の命を救うために行われているのであれば、死者の隣で沸き起こる喜びには、論理的に一抹の逡巡と後ろめたさが伴っていなければならない。我が子を残して死ななければならなかった女性への想像が、「大変残念に思います」の一言で済まされるならば、医師の生命倫理としても強烈な違和感が残る。父親の渡辺好男さんは、娘の長男が「お母さん起きて。サンタさんが来ないよ」と泣き叫んだ姿が脳裏から離れないという。医療過誤裁判の被害者が求める真実は、このような1人の人間としての真実である。そして、医師も1人の人間である以上、専門用語による議論とは別に、人間としての回答をすることが可能である。本来、1人の人間の死は社会問題ではなく、医師不足の問題とも何ら関係がないはずである。しかしながら、裁判で医師からそのような回答が返ってくることはまずない。