犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

裁判員の側からものを見る

2008-08-18 19:51:02 | 実存・心理・宗教
いかなる殺人罪も、強盗罪も、放火罪も、被害者が存在しなければ成立し得ない。その意味で、犯罪被害者は刑事裁判のシステムの維持にとっては不可欠な存在であった。それにもかかわらず、犯罪被害者は刑事司法から除外され、「忘れられた存在」と言われてきた。最高裁判所の判決においても、刑事裁判は被害者のためにあるのではないと明言されている。これは、社会科学の客観的な視点によって、全体主義的な視角が固定されてしまったことが大きい。実施が間近に迫った裁判員制度においても、同じ弊害が起きようとしている。すなわち、裁判員制度を導入することによって、固有名詞のない集団としての裁判員が存在するようになった結果、人間としての一人ひとりの裁判員の存在が見えなくなるというパラドックスである。

「あなたは被告人に死刑を言い渡すことができますか」。「あなたは人を裁くことの重さに耐えられますか」。このような問いは、裁判員の人生に迫っていない。裁判員制度の導入によって、日本の司法は変わる。しかし、裁判員の人生はもっと変わる。それまで犯罪や裁判などとは無縁の生活を送ってきた人が、何かの機会に裁判の傍聴に行ってみると、それまでの人生観がまるっきり変わってしまうことがある。広い世の中にはこんな場所もあったのか。こんな裏社会があったのか。こんな人間も同じ空気を吸っていたのか。一度このような経験をしてしまうと、人間はそれ以前の自分には戻れない。そして、変化した後の自分は、その後もずっと自分自身につきまとう。これが人生観の変化ということである。傍聴席からの見物ではなく、法廷の正面において被告人と向かい合うとなれば、その変化の度合いは比べ物にならない。

殺人罪や危険運転致死罪の裁判となれば、裁判員も遺体の写真や解剖の経過を記録した写真と向き合わなければならない。人間の命はこれほどまでに儚いものなのか。そのような事実にひとたび直面してしまえば、それは裁判員に強烈な実存不安を引き起こす。毎日のようにそのような記録を見ている裁判官にとっては何でもないことが、裁判員にとっては人生観を根底から覆す衝撃になる可能性がある。これは裁判員のほうが正常であり、裁判官のほうが麻痺している。ここで、遺族が傍聴席で遺影を持つ中で、被告人が平然とした態度で殺意を否認した場合、裁判員は「殺意の認定」という刑事裁判の手続きを遂行することができるのか。人命の儚さに打ちのめされたまま、精神的におかしくならずに、殺意の有無を認定するという作業に集中できるのか。このような問題は、「あなたは被告人に死刑を言い渡すことができますか」という問題よりもはるかに厳しく人間に迫ってくる。

このような人生の核心に迫る難問が相談できるのは、まずは家族や友人などの親しい人間である。しかし、裁判員には守秘義務があり、家族や友人にもこのようなことは相談できない建前になっている。また、守秘義務の関係でブログに書いたりすることも固く禁じられるとすれば、言語化によって混乱を整理するという過程にも強烈な障害が立ちふさがる。裁判員の側からものを見てみると、このような実存的な問題が次々と生じてくることがわかる。裁判員制度の導入に伴う特別有給休暇の新設については、多くの会社で議論されている。しかしながら、もっと大きな問題は、非日常的な裁判を通して生命の儚さや運命の苛烈さに直面してしまった人が、会社に戻って従来どおりの仕事ができるかということである。こう考えると、自分の仕事や家庭を崩壊させないためには、裁判員はあまり真剣に取り組まず、片手間にやるくらいが望ましいという話にもなってくる。「あなたは人を裁くことの重さに耐えられますか」といった視点の採り方は、社会科学の客観性の悪い面の表れである。