犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

死因究明制度

2008-08-29 23:16:36 | 国家・政治・刑罰
8月28日、死因究明制度について、衆院法務委員会の超党派議員団が保岡法相に提言をまとめて提出した。欧米の多くの国では異状死解剖率が50%以上であるのに対し、我が国では10%程度にとどまっている。それによって、死因の取り違えや犯罪の見逃しが頻発しており、事件や事故の再発防止にもつながっていない。このような死因究明制度の低さは、犯罪者を助長させ、裁かれるべき殺人者が野放しにされることにもなる。そこで同提言においては、異状死の解剖率を5年後に20%(年間3万件)となるよう体制を整備することや、新制度創設を検討する審議会の早期設置を盛り込んでいる。また同提言では、死因不明の全死者について、解剖・CT・薬毒物検査などが体系的に行われる制度を新設することの必要性が述べられている。政府は、昨年12月に法務省や厚生労働省など改革のための検討会議を設けたが、作業は進んでいないとのことである。

人は生まれてきた限り、「なぜ人は死ななければならないのか」という形而上的な問いを所有する。そして、この問いには科学では明確な答えが出せず、その役割は哲学や宗教に委ねられる。しかしながら、哲学や宗教における問いを鋭くし、問い自体が答えであるような問いを発するためには、まずは科学によって死因が正確に突き止められなければならない。「死因を究明してほしい」「真実を知りたい」という叫びのような声は、この形而上の問いと形而下の問いの両方に足場を持っている。形而上的には、人間は生まれてきた以上必ず死ぬものであり、すべての人の死因は「生まれてきたことだ」と言える。しかし、何年もの闘病を経て亡くなった人の死と、当日の朝まで健康そのものであった人の死を比較してみれば、湧き上がってくる問いが明らかに異なる。これは、残された周囲の者の悲しみではなく、死ななければならなかった本人の驚きである。

人間は誰しも、過去のその時に戻ることはできない。それゆえに因果律とは、ある結果から原因を遡及的に探究する法則となる。すなわち、過去から現在への時間の流れではなく、現在から未来への時間の流れでもなく、現在から過去への擬制である。仮に過去に戻れたとしても、そこには結果が伴わない以上、それを原因と捉えることはできない。過去と現在が矛盾する時間として存在する以上、過去の正しさは「さしあたりのもの」とされ、原因とは「意志的なもの」とされる。かくして、原因とは現在からの想起となり、社会的な制作物となり、特定の力が読み込まれることになる。ゆえに古来、人間の死因は、非科学的なストーリーによって語られてきた。そして、科学の発達に伴って、哲学や宗教は徐々にその守備範囲を減らしてきた。これは逆に言えば、科学によって死因が正確に突き止められることにより、初めて哲学や宗教の問いを正確に問うことができるようになったということである。

死を大切にすることは、生を大切にすることである。翻って、生を大切にすることとは、死者の死因を明らかにすることである。これは、誰しも人生は一度きりであり、「なぜ死ななければならないのか」という形而上的な問いを所有すべき存在であることに基づく。この問いは、他者の不慮の死によって形而下に先鋭化する。また、「なぜ死ななければならないのか」という問いは来るべき自らの死を語るのに対し、「なぜ死ななければならなかったのか」という問いは逃れられない現実の他者の死を語る点で、形而上の机上の空論を免れている。そして、生き残った者において、「なぜ」という問いの強さが異なるという現実は、それ自体において形而上と形而下の双方に正当性を持っている。科学技術の発達は、人の死因を正確に究明することを可能にした。あとは政治の力である。それだけに、今回の衆議院の超党派議員団の提言と同じ日に民主党の離党騒ぎが起こり、後者のほうばかりが注目され、衆議院の解散の時期ばかりが云々されることは情けない。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。