犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

岩瀬博太郎・柳原三佳著 『焼かれる前に語れ』

2008-08-30 23:27:19 | 読書感想文
死は誰に対しても等しく訪れるものである。しかし、家族にとっては、受け入れられる死と受け入れられない死がある。「人生の目的は何か」、「人生の意味は何か」といった哲学的な問いは、答えが出るものではないが、むしろ死を受け容れる方向に作用する。これに対して、現代の科学技術では判明するはずの事実がわからないこと、あるいは判明しているはずの情報が公開されずに隠されていること、これらは死が受け容れられない方向に作用する。家族が肉親の死の事実を受け容れるためには、現代の科学技術で到達したところの死因を知ることが不可欠である。死因がわからなければ、家族はいつまでも苦しみ、その後の人生も大きく変わることになる。哲学的な生死を問う大前提として、科学的な死因の究明は避けることができない。また、犯罪による死の場合には、家族が死因を知らされずに苦しみを増幅させることは、二次的被害の典型である。この被害は、法廷での証言やマスコミの取材における二次的被害よりも、より直接的な被害である。

現在の日本のシステムにおいては、まず検視官(警察官)による死体の検視が行われ、五官によって外傷の有無などが調べられる。そして、犯罪行為による死と認められた場合のみ、司法解剖に回されることになる。現場では、「殺人の線が出ないと解剖に回せない」などと言われているようである。このような入口における刑事の勘による振り分けには、確かにそれなりの合理性がある。初動捜査に関われる人的資源は限られており、経済性や合理性の観点からすれば、社会常識にも合っているからである。しかしながら、そもそも人間の生死は、経済性によって割り切れる事項ではない。死因がわからずに家族がいつまでも苦しむ状況は、このような合理的なシステムの歪みから生じている。経済的なシステムは、各部署が自分の関係ないことはしないというセクショナリズムや、縦割りによる悪意のないたらい回しを生みがちである。そして、入口による振り分けのミスはなかなか気付かれず、気付かれたときにはすでに取り返しがつかない。

千葉大学大学院の岩瀬博太郎教授は、平成18年1月から、遺体をCT(コンピュータ断層撮影)で検査して解剖結果と比較する全国初の試みを始めている。司法解剖の人手が足りず、遺体を切り刻むことに対する抵抗感も強い日本社会において、この方法は画期的である。CTを用いれば、腹腔穿刺による出血によって逆に死因が不明になるといった弊害も避けられる。病気の発見と治療、すなわち人間を死から遠ざけるための機器をこのような目的に用いることは、一種のコペルニクス的転回に近い。生を勝利とし、死を敗北とする医学の常識の中でこのような試みを始めることは、恐らく相当の覚悟が必要であり、多くの圧力もあったはずである。医療過誤訴訟においても、明らかに医師に不利となるからである。そのような中で、岩瀬教授は次のようにはっきりと述べている。「人の命を大事にすることが医師の仕事であるからこそ、法医学者と臨床医らが『医師』として互いに協力し、死から生を学ぶ制度改革を進めていくことが必要だと私は思っている」(p.180)。

現代社会の複雑なシステムは、すべて人間のために発明されたものであるが、その複雑性が縦割りの弊害を産み、逆に人間を苦しめてきた。解剖の制度においても、現在の日本では、①司法解剖(裁判官の令状に基づき犯罪捜査としてなされるもの)、②行政解剖(非犯罪行為について監察医が行うもの)、③承諾解剖(家族の承諾を得て行うもの)に分かれている。実際に行われていることは同じ解剖であるにも関わらずである。岩瀬教授は、この問題点にも具体的に切り込み、改善策を提示している。もちろん、このような大局的な視点は、現場からの反論の声を招きがちである。警察官も検察官も忙しいのだ、現場を知らずに部外者がものを言うなとの声である。しかしながら、立場による議論は、立場が変われば意見も逆になる。岩瀬教授は、遺族からの司法解剖への不満の声を聞いてプライドを失いかけたときにも、反論ではなく理解によって道を開いた。同じ医学の知識を持った医師であっても、最後に行動を分けるものは、その人の人生哲学であることがわかる。

(続く)

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