犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

柳田邦男著 『「人生の答」の出し方』 その1

2008-07-15 22:20:10 | 読書感想文
p.109~117 より引用

脳の科学研究の最先端を紹介するある本のこと。その本を最後まで読んで、愕然としたところがあった。人間の思考や感情の動きは、脳内の電気信号や神経伝達物質のはたらきによって起こるものであることがわかってきたので、脳にはたらくクスリの開発が急速に進んでいる。近い将来、心の病気や悩みや自制心喪失などというものは、すべてクスリでコントロールできるようになる。いま行われている精神療法の類はほとんどいらなくなるし、神だの仏だのというのも、結局脳内の物質的なはたらきによる幻想に過ぎないことも解明されるようになる、というのだ。

すごい楽観主義だなあと私は思った。と同時に、あまりにも変だと思った。人は一人きりの無人島に生きているのではない。家族や学校や職場や地域における人間関係のなかで生きているがゆえに、悩んだり喜怒哀楽の感情を抱いたり、生きがいをみつけたりするのだ。確かに、思考や感情のはたらきは脳内物質のはたらきによって起こるに違いないし、それらをクスリで抑えることはできるだろう。だが、その人なりの個性的で具体的な生きがいを見出したり、思索を深めたり、深い宗教心のある生き方をしたりといったことを、クスリで操ることはできるはずもない。もしそういうことが可能になったとしたら、そのように操作された人は、もはや人間ではなく、ロボットに過ぎない。

問題は医師が自分の診断は限られた知識と経験の範囲内で行なっているのだということを忘れて、人間の心と身体のダイナミックな関係やいのちの可能性を見る眼を失っているところにある。そういう視野狭窄症は、医療の場に限らず、法律、行政、経済、教育などあらゆる分野の専門家が陥りやすい現代社会の病理になっている。科学の力はすばらしい。問題は、その先なのだ。いかに生きるかという次元になった時、どう生きるかの考え方とか生きがいという問題が登場してくる。


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社会科学は、自然科学に匹敵するほどの客観性、実証性、明確性を追求してきた。従って、その弊害もまた同様である。法律の専門家は心理学については全くの素人であり、心理学の専門家は法律については全くの素人であるならば、犯罪被害者の心のケアもセクショナリズムの煽りをまともに受けてしまう。すなわち「心のケア」ではなく「脳のケア」となり、さらには「大脳辺縁系の海馬のケア」「側頭葉の連合野のケア」へと細分化する。どんなに人間的な悲しみを語っても、「それは作業記憶の長期記憶である」「陳述性記憶のエピソード記憶である」などと分析されて終わりではどうしようもない。

社会科学は、当然の要請として、社会正義の実現、社会貢献、人類の進歩などを目指してきた。いわゆる進歩史観である。ここでは、人間の悲しみは乱暴に切り捨てられてきた。個人主義とは言いながら、「進歩なんかしなくてもよい」という個人の存在は許されない。また、人間の悲しみを時代の中心に置こうとすると、それは時代の逆行であるとして嫌われてしまう。そして、悲しんでいる人は弱者であるとして、治療の対象とされてきた。もちろん、それによって悲しみが癒されるというメリットもある。しかし、それがすべてではない。それがすべてとなってしまえば、人間が人間でなくなってしまう。