犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

谷沢永一著 『いじめを粉砕する九の鉄則』

2008-07-06 21:37:50 | 読書感想文
近代社会は、どの国の憲法にも書かれているとおり、人間の平等を建前とする。ところが人間には、多かれ少なかれ他人を出し抜きたいという欲望があり、その衝突が争いを生じさせる。原始的には、生きるための食欲と物欲、子孫を残すための性欲である。この秩序が維持されると、さらなる高い欲望の争い、すなわち支配欲や権力欲の争いが展開される。すなわち、身分制度を否定した近代社会の平等が、皮肉にも平等に欲望の争いを生じさせる土壌を肯定し、それが不平等を生むことになった。現代社会のいじめは、この1つの形態である。

従来、いじめは学校の中で行われる行為であり、「職場のいじめ」という言い回しはなされていなかった。もちろん、いじめは人間社会において不可避である以上、昔から大人社会にも存在した行為である。但し、大人は経験則上限度というものを知っており、自己規制がかかっていたのに対して、子どもは限度を知らないことが多かったため、学校のいじめが主に問題とされていた。近年、「職場のいじめ」が問題とされ、パワハラによる休業や過労自殺に労災認定がされるようになってきたことは、大人社会が幼稚になってきたことを示している。特に、近年は社会の流れが早く、時代に遅れないように必死に付いて行く様子は、大人も子どもも変わらない。

近年のいじめの特徴として、いじめる側といじめられる側が流動的であり、油断ができないという点が挙げられている。すなわち、いつ自分がいじめの標的となるかわからないため、嫌でもいじめに加わるしかない。これは、1人の人間の中に、いじめる人間といじめられる人間が同時に混在しているということである。すなわち、支配欲や権力欲の争いの特徴的な面である。さらには、日本人の国民性として、このような陰湿ないじめを好む人が多いという点も指摘されているようである。どんなに近代憲法が人間の平等を規定しても、DNAに深く刻まれた国民性のほうがはるかに古い。それゆえに、日本人が群れの中で自己と他者とを比較して、優越感と劣等感の衝突を繰り返す行動もなかなか消えない。

いじめによる自殺が起きたときに、何よりも責められるべきは、いじめをしていた人間である。この一次的な論理的な関係は動かない。マスコミは、いじめた生徒を責めることができないため、その怒りの矛先を学校に向けることが多いが、あくまでも学校は一次的ではない。これは、幼児虐待が起きたときに、その虐待をした親を差し置いて、児童相談所に対して「なぜ見抜けなかったのか」との攻撃をする状況と似ている。このような責任追及は、論理的に第一次的な責任追及を飛ばしているため、肝心なところが抜けてしまう。いじめは学校や教師にわからないように行われ、虐待は児童相談所にわからないように行われるものである。従って、「なぜ見抜けなかったのか」との問いに対する解答は、「直接の加害者が見抜けないようにしていたこと」だと答えるのが一番正解に近い。