犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

京王八王子駅ビル通り魔事件

2008-07-23 22:57:58 | 言語・論理・構造
逮捕後、男は「世の中が嫌になった。誰でもよかった」と供述したという。だが、その言葉から、殺人へ至る理由は見いだし難い。たとえ世の中に絶望したとしても、なぜ通りすがりの人を殺さねばならないのか。男の中で膨らんだ殺意は身勝手としか言いようがない。今の日本社会に閉塞感が漂うといわれて久しい。だが、それは決して他人を攻撃する理由にはならない。

今後の捜査や裁判を通じて、できる限り真相に迫ってもらいたいが、それだけでは足りない。一見平穏なこの社会のどこかに若者を暴走させるものがあるとすれば、それを探って、何とかしなければならない。そうでなければ、巻き込まれた人たちの「なぜ自分に刃物が向けられたのか」という疑問や無念さに答えることにもならないからだ。


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この文章は、昨日の京王八王子駅ビルの事件を述べたものではない。秋葉原通り魔事件の翌日、6月10日の朝日新聞の社説である。この1ヶ月半の間、二度とこのような事件が起きてはならない、何とか原因を探らなければならない、社会全体で真剣に取り組まなければならないといった専門家の議論はにぎやかであった。しかし、その仮説が検証されて完璧な理論が完成するまでに、いったい何人の人が殺されなければならないのか。今回はあろうことか、専門家が秋葉原の事件と八王子の事件との共通点を解説している。いわく、キーワードは「派遣」と「無職」であり、これは格差社会のせいである。2人の加害者は、いずれも収入が不安定であり、将来の不安からストレスを募らせていた。いずれの加害者も、自分が上手く行かない理由を社会に転嫁しており、身勝手な甘え型の犯行である。そのように説明されれば、全くその通りである。しかし、その説明によって、一体何を説明したことになるのか。

事件の一報を聞いた瞬間の絶句と沈黙は、時の経過に従って、徐々に後知恵の解釈によって埋め尽くされる。科学主義・実証主義の世の中では、時間の経過に従って、段々と事件の真相が明らかになってくるものと信じられている。しかし、実際のところは逆である。「許せない」。「信じられない」。「犯人を殺してやりたい」。「怖かっただろう」。「痛かっただろう」。「やりきれない」。「いかなる理由があっても殺人は許されない」。そして、言葉にならない号泣。これらは科学的ではなく、客観的でもない。しかし、どんな専門家による科学的で客観的な理屈よりも、多くのことを語る。事件から数日が経てば、犯罪の動機や背景に関する新たな情報が続出してくる。それによって、実証的な意味での真相は徐々に明らかになり、多くの批評的な言葉が飛び交うようになる。その反面として、事件の瞬間から遠ざかれば遠ざかるほど、その絶句の深さと新鮮さは失われてゆく。これは、つい1ヶ月半前に、秋葉原の事件の報道において多くの日本人が経験したところである。

何とかしなければならない、二度とこのような事件が起きてはならないと言うならば、最も有効な方法は、事件直後の第一報を聞いた瞬間の絶句と沈黙を維持し続けることである。実証的な仮説と検証の方法は、「なぜ殺したのか」という能動態の問いを好む。何となく追究していけば答えが出そうだからである。しかし、いずれにしても答えが出ないのであれば、「なぜ殺されなければならなかったのか」という受動態の問いを問う方がはるかに賢い。被害者の側から見てみれば、「無差別殺人」などという行為が存在し得ないこともわかる。従来、被害者側からの視点は、専門家や評論家の間では劣ったものとして軽視されていた。そして、マスコミは市民の処罰感情をいたずらに煽っており、被害者感情を重視しすぎて公平性を欠いているといった批判が主流であった。しかしながら、このような事件が起きない社会を目指すならば、公平性を欠いてでも、被害者側からの視点の報道を増やすほうが有効である。「いかなる理由があっても殺人は絶対に許せない」のであれば、加害者の動機を掘り下げて報道することは、むしろ逆効果だからである。

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