犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

秋葉原殺傷事件の献花台撤去

2008-07-29 23:38:41 | 時間・生死・人生
東京都千代田区は昨日、秋葉原の無差別殺傷事件の発生から四十九日の喪があけたとして、現場近くの献花台を撤去した。今後は歩行者天国の再開が問題となるが、同区長によれば、「再開するかどうかはお盆明けに第三者を交えた検討会を設置して検討したい」とのことである。もちろん、いつまでも献花台を置いておくわけにもいかない。四十九日という1つの区切りは、その数字の妙と合わせて、人類の積み重ねてきた知恵を見事に表している。しかしながら、「安心して歩ける明るい街の復活」「秋葉原のオタク文化の復興」だけではあまりにも空しい。日本人はなぜ、戦後60年にわたって、毎年8月6日、9日、15日に戦没者を追悼しているのか。1月17日、3月20日、4月25日などに慰霊祭をしているのはなぜか。単なる復興や立ち直りというだけでは、大災害も大事故も語り継ぐ理由がない。絶対に忘れない、風化させないという決意は、単なる未来志向ではなく、現世利益を第一とする功利主義でもない。

4月25日は、平成17年のJR福知山線脱線事故の日である。この時には、約2ヶ月後に運転が再開されたが、時期尚早ではないかという激しい議論があった。事故原因の究明・再発防止の点よりも、犠牲者の家族や負傷者の心情という面が難しい問題として日本社会に迫ってきた。107人の犠牲者の家族にとっては、あの事故の瞬間で時間は止まったままである。そんなに早く運転を再開されてしまったら、あの事故はいったい何だったのか。そもそも事故を既成の事実として過去に追いやり、運転再開の時期を検討すること自体が論外なのではないか。そのような思いが抑えがたく生じてくる。しかし、現代の客観的世界観からすれば、時間は止まっていない。通勤の足としてJRを利用していた人からは、いつまでも不通のままでは不便だとの声が上がり、運転再開の要望も強くなってくる。現代の功利主義・実利主義からこのように言われてしまえば、心の整理といった実存的な概念は非常に弱い。そして、運転再開によって日常が取り戻され、再び現実の世界が日常に埋め尽くされる。死者の不存在は、生きている者によって埋め尽くされてゆく。

無差別殺傷事件の連続に伴い、日本社会はそのたびに現状認識を新たにし、様々な教訓を得てきた。その代表的なものが、「今や日本では安心して街を歩けない」「いつ殺されるかわからない」といった形で犯罪不安をあおる理論である。我々はここから、犯罪被害について考え、犠牲者の死を無駄にしてはならないとの教訓を得てきた。しかし、これは日常から死を遠ざける現代社会の悪い点である。「あなたも明日通り魔で殺されるかも知れません」という命題が脅し文句となるのは、来るべき死を忘れて、いつまでも生きているつもりになっているからである。このような教訓は明らかに方向性が違う。生死を考える際の問題の核心は、人間は通り魔で殺されなくても、生まれた限り必ずいつかは死ぬということである。今現在地球に生きている人は、百数十年後には、誰一人としてこの地球上にいない。この基本から逃げていては何も始まらない。この基本を手放さないことによって、追悼や慰霊、風化の防止のための語り継ぎの意義も初めて明らかになってくる。

現代の科学技術は、物理的な意味での霊の存在を否定した。それにもかかわらず、人間はどういうわけか慰霊祭をせざるを得ない。また、死者に生物学的な意味での肉体や意識がないことは、現代社会では常識である。ところが生きている人間はどういうわけか、死者の無念に思いを致し、安らかに眠ってほしいと願う。これらの事実は、紛れもない人間存在の深い真実を示している。同じように、現代の社会制度は、高度な生命保険のシステムを確立した。生命保険だけで話が済んでいるならば、人間にとって非科学的な献花台など不要であり、そのようなものを設けても誰も来ないはずである。ところが実際には、秋葉原の献花台には約8000の花束や約1万1000本の飲み物などが供えられたそうである。これも人間存在の真実である。哲学的な難題には唯一の解答がない代わりに、このような形で解答が自然と示されている。風評被害による経済的損害の回復、一日も早いイメージダウンからの復活、街の再生という理論だけでは、人間が人間として生きることはできない。人間は人間であるために、時には経済効率に反する行為を選択する。