犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子・陸田真志著 『死と生きる・獄中哲学対話』 その3

2008-07-03 21:23:17 | 読書感想文
「陸田真志 3通目の手紙」より

p.30~38より抜粋

私は法律上の刑罰は、何ら私にとって償いになるとは思っていません。私は死刑だろうが、無期だろうが屁でもないのです。私の罪は、そのような法律、つまり他人が「ここからは死刑、ここからは死ななくてよし」と決めた法律なんぞには関係のない、私自身が「悪い」とする、自分自身にとっても「罪」以外の何物でもなく、たまたま私が「法律上の罪」をした時が現在で、場所が日本で、そこのその時の法律において「死になさい、生きなさい」と言われるなら、「わかりました」と言うだけの話なのです。

そんな他人が決めた法律上の人権という「他人の概念」を、自分や人間の天賦の権利と信じている「人権派」の人たちや、その人権という概念を自ら他人を殺す事で否定しといて自分の人権だけは他人に守れと言う、堺の19歳に、「自分で始めた薬物のせいに、自分の罪を転嫁させるのは見苦しかないか? それは君が殺した被害者に対して、殺害以上の罪を犯しているとは思わないか? それで君は、この先何十年か生きて、やはり死んでいく時に、どう思って死んでいくつもりなのか?」と聞いてみたいのです。

私の罪とは、厳密に言えば被害者の命を奪った事より、彼らが彼ら自身の真実に気付き得た可能性を奪った事にあります。人間がその自己の真の目的に気付く潜在能力を有している。その事こそが万人に平等にある「人が人としてある」天賦の権利、「人権」であると思えるのです。その為のきっかけと時間を、罪を犯した者に与えてくれる死刑制度は、むしろ、非常に人道的であると思えるし、無理にその人間自身の罪悪を考えさせないようにする少年法や人権派のほうが、むしろ、非常に人の道を外したものであり、その人間への「仁義」を見失っていると思うのです。

私が被害者の事を思う度、自身の犯罪を悔いるのは、この一点のみです。「御遺族の気持ちを思うと」と前に書きましたが、あれもよく考えれば私の偽善であったと思うのです。何故なら私は、彼らではないし、彼らの気持ちなど分かることは決してない。私は私の思う仕方でしか、罪も償いもわからないし、出来ないのだ。どうやっても、私が殺した被害者は帰ってはこないのだ。そう思えました。

自分が思う事によってのみ、宇宙も国も社会も「在る」と認められる。自分が思えない限りは、それはどこかにあっても、自分には在り得ない。つまり、生きている間には絶対に知り得ない自己の「死」は存在し得ないし、存在しない「死」が在る事によって「在る」とされる、「生」は在るも無いも「ない」。今、本当にあるのは、「思う自分」を在ると思う「考え」だ。そして、その「考え」自体にある全ての存在への判断基準は、「在るも無いもない生」によってはあり得なく、それ自体として「正、否」があり、それは生まれたものでないのだから死にもしない。


***************************************************

陸田死刑囚が殺した被害者の2人は、SMクラブの共同経営者であり、いわば「殺されても仕方がない人達」であった。これに対して、同じ日に死刑を執行された宮崎勤死刑囚によって殺された被害者の4人は、何の罪もない幼い女の子であった。その意味でも、陸田死刑囚が獄中で気付いた事実は、宮崎死刑囚にとってはより強く気付かなければならない種類の事実である。死刑の執行は、遺族にとっては「1つの区切り」であると言われることが多いが、死刑囚が最期の瞬間に何を考えていたのかによって、その区切りの意味も全く異なってくる。


素粒子への批判 厳粛に受け止め 犯罪被害者の会に本社(朝日新聞) - goo ニュース