犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

人生が途中で突然終わるということ

2008-07-02 22:05:35 | 時間・生死・人生
死は誰に対しても平等に訪れるはずのものである。ところが、この世の現実を見る限り、とても平等とは言い難い。ある人は、もはやこの世に思い残すことはないと言って幸せに死んでゆく。別の人は、死んでも死に切れないという無念の思いの中で死んでゆく。この違いは何か。長寿か短命か、まずは年齢の違いが大きいが、それが全てではない。生命には、量ではなく質の問題もある。死の直前期とは、人間がその一生を完成させる時期であり、一生のうちで何よりも大切な時間である。最後の時間を精一杯生きることにより、自らの人生の集大成を形のあるものとして残したい。人間はガンの宣告などによって死を前にして初めて、自分が本当に生きていることに気がつく。「後期高齢者」と「末期ガン」との緊張感の差を見れば明らかである。人間は残された時間を区切られると、そこに全人生を注入し、終わりの時に立ち向かう。死者が自らの死を受け入れるためには、このようなプロセスが不可欠である。

不慮の事故によって命を落とす場合には、このようなプロセスが全く与えられない。まさかこんな場所でこんな形で死ぬとは思わず、人生が突然終わってしまった。この死んでも死に切れない死者の最期の一瞬の無念さは、生きている人間が論理的に考えうる中でも最大級の言語道断である。「生・老・病・死」の四苦は、誰に対しても公平に与えられている。しかし、この論理が完結する死と、完結しない死とが厳然と分かれている。死が避けられない状況となり、残された時間は少なくても、最後に存分に命の叫びを上げることができたならば、「生・老・病・死」の論理は完結する。人生が輪郭を持ったものとして固定する。これに対して、中途半端なところで人生を切られてしまえば、この論理は完結しない。そして死者自身が死を受け入れていなのだから、その周囲も当然その死を受け入れることができない。この直観的な現実は、後付けの理屈に先立つ。

現代社会は、死というものを極力遠ざけてきた。そこでは、死や悲しみはマイナスであり、立ち直りはプラスである。従って、不慮の事故によって命を落とした者の周囲の喪失感や悲しみは、その遺された者の癒しを主題として捉えられてきた。これは、明らかに入口が逆転している。まずは死者自身に主題を置いて、その周囲との反転を見据えなければならない。最も喪失感に苛まれ、自らの運命を呪い、悲しんでいるのは、遺族ではなく死者自身である。これは科学的・物理的な意味ではなく、哲学的な逆説であるが、単なる比喩に止まるものではなく、科学主義では捉えられない真実を示している。人生の意味、生きる意味などという文法を用いるならば、人間はその終末である死を前にして、生死を含む人生のすべてを完成させなければならない。そして、それが未完成であるならば、死者の意志は論理的には永久に未完成のままで残されているはずである。

遺族の言葉は、遺族でないものには理解が難しい。それゆえに、不慮の事故によって命を落とした者の遺族の言葉は、被害感情、厳罰感情、報復感情などの名称を与えられ、科学主義でもわかるような形に変形されてきた。しかし、これは厳密な論理であって、感情などではない。死者において自らの死を受け入れるための論理が未完成のまま放置されているならば、その問いは遺された者によって問われるしかない。死を前にして命の叫びを上げることによって初めて人生が完結するのであれば、遺された者は死者に代わってその叫びを上げるしかないからである。選択肢は、論理的にこれ以外には存在しない。遺族の喪失感や悲しみといったものは、このような「生・老・病・死」の論理の完結と深く関係する。「死者にもう一度だけ会いたい」という遺族の希望は、客観的な実証科学においては失当であり、被害感情が収まっていないゆえの無理難題であると評価されるしかない。しかし、哲学的にみれば、これほど正確に対象を捉えている命題もない。